榛名神社に参詣し、神仏習合を思う――夏の伊香保・榛名 その五 | 楽土慢遊

榛名神社に参詣し、神仏習合を思う――夏の伊香保・榛名 その五

所在地:
群馬県高崎市榛名山町849
交 通:
JR高崎駅西口より群馬バス・本郷経由榛名湖行き、榛名神社前下車、徒歩15分

2013年7月14日(日):晴れ:伊香保温泉―(タクシー)→榛名神社

■(夏の伊香保・榛名 その四からのつづき)前回は伊香保温泉からタクシーで榛名神社に向かう途中で、運転手さんが気を利かせて高根展望台で車を停めてくれたところまで書いた。展望を十分に楽しみ、タクシーに乗り込んで33号線を進む。蛇行する道を過ぎると左手に相馬山が見え、さらに進むと右手に榛名富士が姿を現し、榛名湖に沿った道になる(ここでは湖の写真は撮らなかったが、その七でお見せできるはずだ)。

バス停もある湖畔亭の分岐で33号線は湖畔を離れ、外輪山の間に入っていく。開けた場所から山深い風景に変わる。カーブがつづく道を進んでいくと、山のなかに門前町が現れ、その通りを抜けると神社の入口に到着する。時刻は08:45。バスを乗りついていれば10:45到着なので、山歩きに割ける時間が2時間増えたことになる。それに最近はパワースポットとして人気の神社だけに、人が少ない時間に参詣できるというのもありがたい。

丸本館で手に入れたマップ付きパンフレットでは、榛名神社は以下のように紹介されている。

「1400余年前、第31代用明天皇(585~587年)の時代に創建されたといわれる古社。榛名神社の名は延長5年(927)に完成した『延喜式神名帳』という、全国の主要な神社の名を書き記した記録の中に「上野十二社」の一つとして載っています。雨乞いの神社として、また修験者の霊場として古くから榛名山信仰の参拝者を集めてきました。江戸時代末期に至るまで神仏習合の時代が続き、満行宮榛名寺などと称えて、上野寛永寺に属し、別当兼学頭が派遣されて一山を管理していましたが、明治初年に榛名神社として独立しました。
 本殿は200余年前の文化3年に再建され、御祭神は後方の御姿岩の洞窟の中に祀られています。境内には、戦国時代、武田信玄が箕輪城攻略の際、矢を立て戦勝を祈願した矢立杉[やたてすぎ](天然記念物)をはじめ、文化財・天然記念物が多数点在しています。
 参道脇には、独特の風景を醸す国登録有形文化財の宿坊があり、榛名神社に参拝がてら社家町の情緒あふれる街並みを散策することができます」

しかし、榛名神社が最初からこの場所にあったとは限らない。いまでこそ門前町になっているが、古代には人を寄せつけない険しい山だったはずだ。その四でも引用した尾崎喜佐雄の論考「伊香保から榛名へ」(みやま文庫7『榛名と伊香保』所収)では以下のように説明されている。

「この榛名神社は現在榛名町大字榛名山という群馬郡の西端の山奥の谷合に鎮座している。附近には伊香保神社のところで述べたように、平坦地もなければ、崇敬した豪族の住めるような土地もない。古墳などは勿論見当たらないのである。すると他に特殊な理由があって、官社として朝廷から特別な待遇を与えられていたのであろうということになる。そこで鎮座地やその後の沿革などによって、仏教と特に関係の深い神社であることが知られるのであり、修験道によるものであり、更に言えば仏教の中の密教によるものであろうと考えられる。しかし、元来は神社として存在していたものが密教によって変化させられたもので、その変化は九世紀に入ってからと見られるので、それ以前は豪族によって維持されてきたものに違いない」

ということで、神仏習合の霊場になる以前には、別の場所に鎮座していたと考えられている。さらにもうひとつ、興味深い情報がある。土屋文明記念文学館の第61回企画展「榛名・伊香保文学紀行」のパンフレットに収められた清水喜臣の「榛名神社と榛名講」には、以下のような記述がある。

「一方、榛名神社の起源については、榛名山東麓を拠点とする有力な氏族が祀っていたものを九世紀ころ仏教徒が現在地に移し祀ったものという説が定説的にいわれています。高崎市箕郷町東明屋にある椿山古墳の墳丘上にあった榛名社という石宮が元宮であるという説です。
 しかし、近年榛名神社境内に「榛名神社巌山遺跡」の存在が確認され、小金剛仏(地蔵菩薩立像)や錫杖の頭部、土師器、須恵器の破片などが採集されました。それらの遺物から九世紀代の拠点はこの遺跡との見方もでてきました。そんなところから榛名神社は修験の人々が行場として開発した山ではないだろうかという見方も視野にいれて検討する必要がありそうです」

それでは榛名神社を参詣することに。最初に二ノ鳥居をくぐると随神門がある。神仏習合の時代には仁王門だった。運慶作の二力士があったらしいが、神仏分離のときに焼却されてしまったようだ。いまは随神が置かれている。榛名川にかかるみそぎ橋を渡り、参道を進む。この一帯は神社の森を対象とした緑地環境保全地域に指定されている。植生は、樹齢1000年以上のスギの大木を中心として、ヒノキ、サワグルミ、ハルニレ、カツラ、ウラジロモミなどが混生し、鳥類も豊富でオオタカなども生息しているという。

参道の右手、下方には榛名川の流れを眺めることができる。川をはさんだ対岸の斜面には鞍掛岩という奇岩がある。本来は洞穴状だったものが、奥の岩が落ちて橋のように残ったものだという。一方、左手の斜面にはスギの老木が生い茂り、五輪塔や洞窟らしきものが見られる。売店の手前に水琴窟があったので、水の響きにしばらく耳を傾けていた。左手に朝日岳、夕日岳と呼ばれる尖った岩山が現れる。案内板によれば、中腹に洞があり、宝珠窟と呼ばれていたということなので、ここも行場もひとつだったと思われる。

一ノ鳥居のわきで神仏習合の名残りを留める三重ノ塔が拝めるはずだったが、参道がその部分だけ鉄骨とシートに覆われていたため視界が遮られていた。修繕中だったのかもしれない。鳥居の先、左手の岩穴のなかに塞神社という小さな祠が祀られている。6月と12月の最後の日にここで道響祭が行われるという。

神橋を渡ると、左手が行者渓、東面堂になる。案内板では以下のように説明されている。「道上の岩にはめこまれた扉は東面堂という建物の名残です。扉はおそらく須弥檀(しゅみだん)の奥に秘仏、千手観音を安置したところにはめこまれたものと考えられます。ここは上野34所の21番札所でした。歌川広重の『榛名山雪中図』には、この東面堂をはじめ懺悔橋(ざんげのはし)・満年泉前辺りにあった境内茶屋や行者渓などが見事に描かれています」

大岩の下、柵で囲まれた萬年泉については、案内板で以下のように説明されている。「古来農村日照にて苦しむとき、この御神水を竹筒にいただき、祈願を受け村に帰り田畑にまけば必ず霊験ありと」。雨乞いの神としても名高い神社を象徴しているともいえる。

萬年泉の先には矢立杉がそびえる。武将が戦勝祈願のため弓を立木目掛けて射かける神事の対象となった杉で、武田信玄も祈願したという。この矢立杉を過ぎると神社の主要な建物が並ぶ聖域になる。

神門へとつづく石段の左手には神幸殿が建っている。先述した「榛名神社と榛名講」によれば、榛名神社例大祭の神輿渡御神事のときに、本殿を出た神輿がこの社殿に渡るということだが、ふたつの建物の関係は象徴的でもある。神幸殿の建物は仏堂の形式を踏襲しているからだ。

神門につづく石段には両側から大岩が迫り、独特の雰囲気を醸しだしている。見上げると神門の上には双龍門も見える。神門を抜けたところには社務所があり、左手にある石段が双龍門につづいている。双龍門の左手には鉾岩がそびえ、その景観に目を奪われる。双龍門は龍などの彫り物も見事だ。

双龍門を抜け、右手の石段をのぼると神楽殿の脇に出る。社務所前の案内板によれば、神楽殿は明和元年(1764)十一月の再建。方二間の高床形式。神に奉納する場所であるため、本殿と向かい合い、床の高さを同じくしているという。

神楽殿の右手奥には国祖社。もともと榛名山西部の御祖霊嶽にあったものを本社のそばに摂社として祀るようになったと伝えられる。神仏分離以前は本地仏を安置し、本地堂とも呼ばれたという。その左手には国祖社を増築するかたちで神楽拝見所が接続しているが、大小の扁額が掲げられていることから額殿と呼ばれている。

そして、御姿岩のなかに組み込まれているように見える社殿(本社・幣殿・拝殿)。文化三年(1806)の再建。手前が拝殿、奥が本社でそれをつなぐのが幣殿。本社、拝殿ともに入母屋の権現造。屋根は銅板葺。目貫の鷲、左右海老虹梁など彫刻が多い。格天井の花草飛龍の絵は仙台藩の絵師根本常南の筆とのこと。人のかたちをし、仏にも見える御姿岩と建物が一体となった社殿は圧巻である。この神社では、火山活動でできた荒々しい自然の風景と建物が密接に結びついている。

ここで個人的に榛名神社の魅力が凝縮されていると思える記述を引用しておきたい。まず先述した「伊香保から榛名へ」から。「榛名神社は仏教でつけた名を満行宮といった。赤城神社は覚満宮といったが、この方は余り著名ではないのに較べて、満行は榛名神社の分社の鎮座地の名となって諸方に残っている。そのように榛名神社は仏教と密接な関係がある。もともと巌殿寺という寺が建てられて、その守護神として祀られるようになったのかも知れないが、しかし形はやはり神社を中心にしている。神仏習合の完全な姿であって、神社の傍に神宮寺を建てたというものではなさそうである。神社即寺院といった形にとれる」

さらに、井田安雄は論考「榛名信仰」(『山岳宗教史研究叢書8:日光山と関東の修験道』(名著出版、1979年)所収)のなかで、平沢旭山の旅行記を引用しつつ、以下のように書いている。「榛名神社は、旭山のいうように、長い間、神とも仏ともつかないような形で信仰されてきたのである」

そうなると神仏習合の時代にこの霊場がどのようなかたちをとり、どのように見られていたのかを確認したくなる。そこで、(その四でも引用した)江戸時代に書かれた二冊の紀行文、中川内膳正妻室の『伊香保記』と跡部良顕の『伊香保紀行』(ともに『群馬県資料集 第六巻 日記篇Ⅱ』(群馬県文化事業振興会、1971年)所収)を引用しておきたい。

中川内膳正妻室の『伊香保記』では、榛名神社が以下のように描かれている。「御やしろは右のかたの森のうちにたゝせ給う。ちぞうかだけというほらの中へつくりかけられたり。この頃そう宮ありしとてきら/\と見ゆるものから、さすかに神さひつゝ有かたくそみへさせ給ふ。此御神はまんきやう権現とてことにれいけんあらたにわたらせ給ひて此所の民ともの屋山田に水なき事なとうれへて祈奉れは、たちまちにあたへさせ給ふとなり。其外さま/\のきとくふしきおほしとかや。かのそうしやの八郎権現の御ちゝ君にしておはしましけるとそ。えんきはおもひかけすそうしやにてみまいらすれはいよ/\有かたき事にておもひし。され此外堂宮々々みゆるにまいりてみれば、左のかたにねはん堂、きやうき御作のちさうたう、おなしき御作の薬師堂、しやかたうには左右に文殊ふけんおはします、これは七うちの堂にてそありけり。まつしやには住吉三嶋の明神たゝせ給ふ。さて坂下には大せんゐん、学頭はんにや坊、こんかく院、中さう院、中の坊、山本には川なかれりうのくらかけとて山より山に岩橋其外つゝら岩ゑほし岩なととてめつらかなるいはほそひへたり。こなたの山もとにはたへ/\おつる山井のし水あり、是れをのむ人は千とせのよはひをのふるといひ伝へけるとかや。さて宮のあたりには山ふし岩、あみたかたけ、りうてん、ふうてんなというさま/\の岩たゝすまひにこきうすきもみちのさしましりたるほとおもしろき」

この記述からは、様々な御堂や御宮が建ち並んでいたことが想像できる。満行(まんきやう)権現の霊験も含め、神仏習合の時代の霊場の空気が伝わってくる。

一方、国学者・神道学者である跡部良顕は以下のように描いている(彼が神仏習合に批判的であることは頭に入れておくべきだろう)。「こゝを過て権現の社の前に番所有。それより石段の坂三ツ有て、登れは本社也。近比造立して朱の玉垣、千木かたそきまて美を尽したり。内陳の社は後の岩の洞の中へ作りかけ見ゆる。この岩仰レ面てたをるゝ程の高き岩なり。人の形して見ゆ。頭のことくまろき所に幣をさしてをけり。卯月朔日より十五日まて祭礼あり。神楽堂、三重の塔、鐘楼有。神楽堂の前に鞍懸岩とて高き岩あり。本社の左の山に清水流るゝを御供の水という。鐘楼の群に山伏かたけと云岩あり。向によろいかたけという岩有。山の上に洞窟三つならひて、其中に仏像三つあり。護摩堂有。大きなる杉の木四方にならひ茂り、松柏其間にしける。本社の前に巫女座して鈴をふり神託をのふる。此社は満行権現とて将軍地蔵を安置したるよし、社僧語る」

そして最後に、「榛名信仰」から修験道に関連する部分を引用しておく。「榛名周辺の山の中には、相馬嶽のように、修験道の行場として、古くから信仰をあつめている。弁天洞は雷天岳の南方中腹にあり座主頼印僧正が弁天供修法を修誦した所という。行者渓は、役小角の修法した所という。行者堂跡は、役の行者のお堂があった所。仙之洞は神楽殿背後の懸崖中の大洞窟で、弘法大師の誦経修法場であった所というように、修験道との関連が深い」

夏の伊香保・榛名 その六につづく)

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