秦野駅から権現山、弘法山、善波峠へ―駅から登る丹沢・大山 その一 | 楽土慢遊

秦野駅から権現山、弘法山、善波峠へ―駅から登る丹沢・大山 その一

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所在地:
[弘法山公園] 神奈川県秦野市曽屋及び南矢名
交 通:
小田急線秦野駅より徒歩で弘法山公園入口へ

2007年10月24日(水):晴れときどき曇り:横浜駅―(相鉄線)→海老名駅―(小田急線)→秦野駅→弘法山公園入口→浅間山→権現山→弘法山→善波峠分岐

■ 丹沢・大山に登るコースとしては、小田急線伊勢原駅からバスで大山ケーブル駅や日向薬師、小田急線秦野駅からバスでヤビツ峠に行くのが一般的だが、本日は秦野駅からバスを利用せずそのまま登る。権現山、弘法山、念仏山、高取山、浅間山を経て本坂の16丁目、本坂追分で表参道に合流して山頂に至り、雷ノ峰尾根を経て日向薬師に下る。

筆者は駅から登れるコースも嫌いではないが、ただそれがやりたくてこのコースを選んだわけではない。山の大きさや深さは、どう登るかで変わる。交通の便がよくなれば山は小さくなっていくが、このコースなら一般的なコースとは違った山の大きさを感じられる。しかしそれ以上に魅力的なのが、かつての山岳信仰の名残を留めていることだ。権現山や弘法山という山名にもそれが表れている。

相鉄線と小田急線を乗り継ぎ、6:30頃に秦野駅に到着。浅間山、権現山、弘法山を含む地域は弘法山公園と呼ばれていて、まずはその弘法山公園入口を目指す。

駅の北口からまほろば大橋をわたり、水無川沿いを進む。

新常盤橋の交差点を左折して真っ直ぐ行くと弘法山公園入口の道標がある。

このコースには浅間山がふたつあるが、まずは最初の浅間山を目指して丸太階段を登っていく。

標高196mの浅間山に到着。秦野市観光協会の弘法山公園散策マップでは以下のように説明されている。

「浅間山からの展望は素晴らしく、晴れていれば富士山や箱根の山々がきれいに見えます。富士山の見える山には浅間神社が祭られれ、浅間山といわれることが多く、弘法山公園の浅間山も同様の理由で、名づけられたと思われます。山頂にはその名残りの浅間神社の小さな祠があります」

写真がちょっとブレてしまったが、確かにピークの手前の草むらに古い小さな石祠があった。山頂には木のテーブルやベンチもある。

浅間山から一度車道を横切り、丸太階段を登り、権現山を目指す。

標高243.5mの権現山に到着。山頂は広々としていて、立派な展望台が建っている。展望台からは、これから登るピラミダルな山容の大山がよく見える。今日は天気は悪くないが、遠方が霞んでいるため、富士山は見えなかった。

この権現山と弘法山に設置されている案内板は非常に充実していて、しかも筆者が興味を覚えることが書かれている。

「通常弘法山と言えばこの権現山を含んでのことであり、又の名を千畳敷きとも呼ぶ。権現山は元々その名の由来とする権現堂があったために名付けられたものである。龍法寺の伝えに依れば権現山には白山妙理権現が祭られ、その本地仏として現在龍法寺に安置されている十一面観音菩薩が字観音山に祭られていたという。また、明治の末頃までは堂の位置を示す土壇も認められたという。
 最近の城郭調査によると山頂の西北端には二段の腰郭、東端近くの西南側にも細長い腰郭が取り巻き大小十四箇所もの平場がある。いずれも西北を向いていることから権現山から見て西(秦野方面)に対する備えを目的としているようである。築造の時代は室町期の城郭址との報告も出されているが、権現堂との関わりは不明である。
 この山頂では毎年八月十四、十五両日の弘法山の百八松明として親しまれている民俗行事の採火が行われる。当日の夕方になると東麓の瓜生野部落の人々が二メートル前後の麦藁を束ねた松明を担ぎ登ってくる。午後七時過ぎ、辺りが暗くなるのを見計らって大きく積み上げた麦藁に点火する。そして銘々がその火から自分の松明に点火し、年少者から順次麓に向かって下山する。麓では、女性を中心に今や遅しと待ち受け、一年の無病息災を祈って火の粉をかぶる慣わしがある」

白山妙理権現は、日本三霊山のひとつ、白山の白山修験の神であり、「頂上本社を拝し、日向薬師に下る――2006秋の丹沢・大山詣で その三」で触れたように、大山修験も白山神社との深い結びつきが示唆されていた。さらに、後の時代にこの場所が城郭としてどのような意味を持っていたのかも気になる。

権現山から馬場道と呼ばれる尾根道を歩いて標高237.1mの弘法山にたどり着く。山頂には、弘法大師像を祀った釈迦堂や鐘楼、伝承が残る井戸がある。頭のない石仏や石塔の一部が乗った石の蓮華座など、神仏分離、廃仏毀釈の傷跡と思われるものも見られる。さらに歴史とは関係ないが、ここを住処としているように数匹の猫がいて、猫好きの筆者を喜ばせてくれた。

先ほど案内板が充実していることを強調したが、こちらではまず弘法山の歴史が以下のように説明されている。

「弘法山の名前は弘法大師(774~835)がこの山頂で修行したことから名付けられたとの伝承があり、権現山(千畳敷)を含んで呼ぶこともある。弘法山は麓の龍法寺と深い関わりを持ち、戦国期に真言宗から曹洞宗に変えた。鐘楼の下に続く沢を真言沢と呼び、その名残りがある。
 弘法山の鐘は、享保頃(1716~35)に龍法寺5世無外梅禅と行者の直心全国が発願し、弘法山周辺の村々の有志や念仏講中の人々の寄進により宝暦7年(1757)12月に完成させた。明和3年(1766)に山火事でひび割れ、再び周辺村々の有志や江戸隅田の成林庵主で下大槻伊奈家出身の松操智貞尼の尽力により徳川御三家や諸大名などから「多額の喜捨」を得て享和元年(1801)5月に完成した。鐘は当初から「時の鐘」として親しまれ、災害の発生も知らせながら昭和31年まで撞き続けた。現在の鐘楼は慶応3年(1867)に再建したものである」

弘法大師の伝承は至るところにあるが、明治の神仏分離まで大山の石尊信仰の中核を担った大山寺の第三世は弘法大師とされ、雨降山大山寺の公式サイトには、「世に弘法大師が開祖という寺院は多いが、開祖ではなく大師が住職を務めたと伝わる寺はまれである。大師により数々の霊所が開かれ、大山七不思議と称される霊地信仰を確立した」と書かれている。また大山寺の境内には大師堂が建ち、93体の大師小像が安置されているという。

弘法山に建つ釈迦堂のわきには別の案内板が設置され、釈迦堂(しゃかんどう)、経塚、甕、経石、経筒について以下のように説明されている。

「山頂には弘法大師の旧跡であることから、古くより福泉庵という堂があった。江戸時代の中頃に龍法寺の僧馨岳永芳はこの荒廃を嘆き新たに堂を建て釈迦如来像と弘法大師像を祭って釈迦堂としたが、明和3年の火災で釈迦像が焼失し、石造であった弘法大師像はこの時から露座となった。堂の再建後は弘法大師の木造のみを安置していたが、関東大震災や昭和7年の台風被害を被った。長く仮堂であったが、昭和39年に現在の釈迦堂が完成した。

経塚 釈迦堂の後部には鎌倉時代後期の経塚があった。経塚は経典を書写したものを埋納した仏教上の施設で、末法思想から生まれた。日本では平安時代末期に出現し、藤原道長が金峰山に般若心経一巻他を埋納した事が知られている。弘法山の経塚は昭和7年に神奈川県により調査され当時は大甕の口縁部が露出した状態で、経石も散乱していた。

 口縁部が楕円形をし、直径68センチ、深さ75センチ、腹部から急に細くなっている。

経石 「妙法蓮華経観世音菩薩普門品」の一字一石経、経題のみ大型石に記載されていた。

経筒 鋳銅製経筒の一部と見られる破片が出土、推定直径12センチ。
その他陶製の灯明皿が出土している。」

経塚については、「雨のなか夏山登山道を行き、弥山頂上へ――伯耆大山に登る その五」「白山信仰と伝説に彩られた慈光寺へ――新潟の温泉・霊場巡り その九」などでもわずかながら触れている。

弘法山からは善波峠方面へと向かう。

善波峠の手前では、この古道を見守ってきた御夜燈に出会える。案内板では以下のように説明されている。

「この御夜燈は、文政十年(一八二七年)に、旅人の峠越えの安全のために、道標として建てられました。
 点灯のための灯油は、近隣の農家が栽培した菜種から抽出した拠出油でした。
 この下に峠の茶屋があり、その主人、八五郎さんの手により、明治末期まで点灯し続けられていました。
 その後、放置されたままになっていましたが、平成六年(一九九四年)地元の『太郎の郷づくり協議会』の手により復元されました」

善波峠に出る。そこには数体の石仏が静かにたたずんでいる。

石仏のなかには頭部のないものがあり、神仏分離、廃仏毀釈の傷跡と思われる。

奥野幸道の『丹沢今昔―山と沢に魅せられて』(有隣堂)では、峠のことが以下のように説明されている。

「峠は、かつては江戸から足柄道へと結ぶ矢倉沢往還の要所として栄え、多くの旅人や商人が越えた。往還は江戸庶民の大山参りや富士山参りの道としてにぎわい、大山道、富士道とも呼ばれていた。文化の交流や資源を運ぶ道でもあった」

駅から登る丹沢・大山 その二につづく)

《引用文献》
● 『丹沢今昔―山と沢に魅せられて』奥野幸道(有隣堂、2004年)

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