金門から大山寺本堂、大神山神社奥宮へ――伯耆大山に登る その四 | 楽土慢遊

金門から大山寺本堂、大神山神社奥宮へ――伯耆大山に登る その四

所在地:
鳥取県西伯郡大山町大山
交 通:
JR米子駅から日交バス大山寺行でバス停大山寺下車(約50分)、大山寺参道を大神山神社方面へ徒歩約20分(奥宮まで)

2012年5月3日(木):曇りのち雨:金門→大山寺本堂→護摩堂→下山観音堂→和合の岩→石畳の参道→後向き門→大神山神社奥宮→吉野旅館





■(伯耆大山に登る その三からのつづき)南光河原で靄にかすむ金門を眺めたあと、今度は佐陀川を渡り、大山寺本堂へと向かう。

「大山ぶらりまっぷ」を見ると、この南光河原は、川を渡るポイントによってそれぞれに名前がつけられているようだ。われわれが蓮浄院跡に行くために渡った(伯耆大山に登る その二参照)下流の大山寺橋は「下渡り」、その上流、参道と洞明院を結ぶ道から渡る場合は「中渡り」、そして金門のすぐ下流から渡る場合は「上渡り」となっている。おそらく遠い昔にはそのように呼ばれていたのだろう。

その「上渡り」で対岸に行き、道なりに進んでいくとすぐに大山寺の境内に出る。参道本通りから直接、大山寺に来る場合には山門をくぐって境内に入り、本堂はずっと奥になるが、金門の方向から来た場合には本堂のすぐわきに出る。境内に入ったところには立派な法華塔がたっている。

大山寺と大神山神社は神仏習合の時代にはひとつのものだった。では、神と仏はどのように習合し、分離されたのか。まずはそれを神社の側から振り返ってみよう。出雲國神仏霊場のサイトでは、大神山神社の縁起が以下のように綴られている。

大山は古より神おわす山として、よって大神岳とも称され、中国地方一の霊峰とも言われ修験道を始め多くの人々の信仰を集めてきた。神体山としての大山には主神として「大己貴命(おおなみちのみこと・大国主命の別名)」が鎮座し給うとされたが、仏教の隆盛による神仏習合思想の広まりとともに、大己貴命に地蔵菩薩を祀り「大智明権現」の称号を当てて神仏混淆の神社として奉仕されるようになり、平安鎌倉期には三院百八十坊僧兵三千名とまで数えられるようになった。一方この地は冬期積雪が多く、祭事の遂行が困難なため麓に冬宮を設けて冬期にはこの冬宮で奉仕を行うようになった。明治時代になると神仏分離令により尾高の冬宮を本社とし、大山の宮から地蔵菩薩を除いて大神山神社奥宮とし、現在のような形となった

これに対して大山寺でもらったしおりには、沿革の「明治時代」という項目で以下のように記されている。

明治初年、神様と仏様を別々に祀れという所謂神仏分離の政令が出され、当時の座主北白川能久親王も時の流れにはどうする事も出来ず実に開山以来一二〇〇年の間、大山寺のご本尊を御祀りしてあった本殿を、明治八年神社に引渡し以来、大日堂にうつし祀らねばならなくなりました。この為、大山寺一山は急激に頽廃するに至ったのです

さらに、その三でも触れた三浦秀宥の論考「伯耆大山縁起と諸伝承」(『仏教民俗学大系7:寺と地域社会』所収)では、以下のように記されている。

サイの河原を見下ろす所にある権現造りの社殿がもとの大智明権現社である。明治八年(一八七五)九月の教部省指令によって、この社殿は大神山神社奥宮(本社は米子市尾高)となり現在に至っている。大智明権現像、すなわち地蔵菩薩像は、それまで中門院所属の諸院が奉じていた大日堂に移され、それ以後は大日堂が大山寺本堂と称された

現在の大山寺本堂は、昭和3年に焼失したあと同26年に再建されたものだが、もとは大日堂で明治8年以降、本堂となっていたということになる。

同じく三浦秀宥の論考「伯耆大山と民間信仰」(大島建彦編『民間の地蔵信仰』所収)にはこの神と仏の関係をめぐって、気になる説が紹介されている。

実際に、大山の場合には、しばしば地蔵智明権現とも称しているように、両者は一体異称の信仰であって、智明権現という独立した神格なり信仰があって、その密教的解釈や理論的性格として地蔵菩薩が本地仏として置かれたのではなく、もともと地蔵信仰に基づいて創建された大山寺において、山伏が智明権現の名によって地蔵の信仰を奉じたのが真相であるらしい

それにつづく記述も重要だと思えるので、さらに引用したい。

しかし、このことは、地蔵信仰によって初めて大山が信仰の対象となったというのではなくて、大山の山容を仰ぐ者にとって、これを大神山(火神山)と呼んで神霊の領する山とする信仰は久しかったのであるが、それは大山祗命というような捉えかたによるものではなくて、農民の素朴な山の神に寄せる信仰にほかならなかった。沼田頼輔氏の説のように大山寺開創以前の大山が荊棘に閉ざされていても、この山に神霊の存在を感じることに矛盾はないし、恐らく最初にこの山に分け入った者は、堀一郎氏が『我が国民間信仰史の研究』に説く「山林に棲止して、苦修練行を積み、以って壱呪験力の養成に努力した」人々であったと考えるほうが自然であろう

大山寺の境内では“宝牛(撫牛)”と呼ばれる牛の像が目を引くが、その背景にある牛馬守護の信仰にも触れておきたい。三浦秀宥の「伯耆大山と民間信仰」には以下のように説明されている。

石田寛氏の『大山博労座』によれば、中国地方一帯には古くから牛に荷物を負わせ、或は引かれて大山や出雲地方に神詣ででする慣行が農民の間にあり、中国一の大山牛市はこの参詣者同士の間に牛の交換が行われたことと大山山麓が参詣者の注意を惹く良質の牛の放牧場であったことによるとされ、「縁起絵巻」六十二段にも美作の牛が粮米を負って大山に上り法華読誦を聴聞して人間に生まれ変わった話を載せている。
 大山が牛馬守護神であったために、ことに牛を連れて大山に参詣するふうがあったことは、別の面で大山牛市の原因となったという点も、また石見国阿須那市の例を引いて石田氏の指摘されている所である。備中の山村の大山神社や備後北部の村々の大山講は今も牛馬守護の信仰によって維持されている

大山の信仰の背景についてはこの程度にしておこう。そこでまずは、かつて中門院の大日堂であった大山寺本堂にお参りをする。その本堂の左手には大神山神社奥宮に通じる近道があるが、有名な石畳の参道の途中に出てしまうので、とりあえず寺の境内から本通りに下る。階段を下りると左手に護摩堂、右手に下山観音堂がある。その観音堂で「大山大智明大権現」と記されたお札と牛と馬の絵が入ったお札を買い、さらに階段を下りて山門をくぐる。

御幸参道本通りに出ると右手に大神山神社奥宮へと通じる参道がある。その入口には石造りで歴史を感じさせる明神鳥居がたっている。国指定の重要文化財とのこと。

この石畳の参道には見所が多い。まず目を奪われるのが「和合の岩」。二本の杉の巨木と大岩が見事に合体し、その岩も中央に溝が入っているため、ふたつがひとつになっているようにも見える。

ちなみに立て札には以下のように書かれている。「「和合」とは「なかよくすること」と言われているが、この杉の老木と岩とは、不思議なほど自然に調和しているのでこの名がある。いつごろからか、子どもがほしい人、よいお嫁さん、お婿さんがほしい人、夫婦仲や、お舅お姑との間があまりうまくいかず悩んでいる人は、この和合の岩にお祈りすると願いがかなえられると伝えられている

つづいて参道に埋め込まれた「無明の橋」。橋の裏には金剛経が刻んであり、これを渡ると一切の罪障が消滅するといわれている。

「大山ぶらりまっぷ」では、参道について以下のように説明されている。「大神山神社へと続く約700mにわたって自然石を敷きつめた日本一長い石畳の参道。杉木立の両側には中門院派の僧坊跡が埋もれており、江戸中期の「吉持地蔵」や博労座より移築された銅鳥居など、往時を偲びながらの散策が楽しめます

しばらく進むと右手に大岩に刻まれた吉持地蔵が現れる。立て札には「江戸中期の頃会見郡の長者吉持甚右衛門が経悟院住職豪堅に仲を持ってもらい寄進したもので大山j寺の数多い地蔵の中で自然石にきざまれた数すくない地蔵である」とある。苔むした大岩には自然の荒々しさがあるが、そこに彫られた地蔵の造形は細やかだ。

その先には博労座から移築されたとされる銅鳥居がたっている。「博労座」については「大山ぶらりまっぷ」に以下の説明がある。「「博労」とは牛馬の売買や仲介を仕事とする人のこと。約300年前、大山の祭日を期して開かれた市を起源とし、「日本三大牛馬市」のひとつとしてあった牛馬市の会場で、今はバスの停留所、一般駐車場、イベント会場となっています

石畳が階段にかわり、その先に大神山神社神門(逆門・後向き門)が現れる。「よく見ると、扉が開かないようにするための閂(かんぬき)が、内側ではなく外側についている“後向き門”。もともと大山寺本坊西楽院の表門としてありましたが、1875年、寺から神社にそのままの向きで移築されたものです」(「大山ぶらりまっぷ」)

1875年は明治8年にあたり、大智明権現社の社殿が大神山神社奥宮となったときを意味する。この門の向きにもその歴史が刻まれていることになる。


門をくぐると、奥宮につづく階段の手前で狛犬が睨みをきかせている。とても力強く風格があり、印象に残る狛犬だ。

大神山神社奥宮に到着。「社殿は全国最大級の壮大な権現造りで国の重要文化財。幣殿にある白檀の漆塗りは日本一の規模を誇って美しく、拝殿の格天井の彩色画も見事。ほか西日本最大級の神輿もあります。元々は僧が修験のために大山に登り、その道場として簡単な遥拝所を設けるようになったのが始まり。大神山神社本社は米子I.C.の傍、米子市尾高にあります」(「大山ぶらりまっぷ」)

両翼の長廊をあわせると50mにもなる社殿は荘厳で迫力がある。拝殿でお参りしたあとに、ここでも「牛馬守護神」と書かれ、牛と馬の絵が描かれたお札を買う。

社殿の外で、大山から下ってきた登山者のグループとすれ違った。起源からも察せられるように、この場所は登山口にもなっている。われわれも明日、蓮浄院跡の脇の夏山登山道から登り、この奥宮の裏手に下りてくる予定だ。

僧兵コースにはまだ他にも見所があるが、とりあえず見たいと思った場所はみな回ったので宿に戻ることにする。参道を引き返し、本通りに出て下っていく。その途中で通りに面した大山参道ギャラリーに立ち寄る。入場は無料で、休憩もできる。親切なスタッフが大山についていろいろ教えてくれる。大山のポスターをもらえることになったが、雨に濡れてしまうのが嫌だったので、明日、下山したあとでもう一度立ち寄り、受け取ることにする。そのあと、モンベル大山店にも寄り、雨に備えた小物を購入。

吉野旅館に到着。一日目をこの宿にしたのは、大山町公式観光サイトD-Clubの宿泊施設リストを見て、「登山客大歓迎!山の詳細情報もばっちり!大山や日本海の眺望できるお部屋もあり」という宣伝文句に引かれたから。

今度はご主人が迎えてくれて、二階の二間つづきの広い角部屋に案内してくれた。昔ながらの素朴な味わいの宿だ。天気がよければ窓から大山が眺められるはずだが、この天候ではどうにもならない。ひと休みして風呂へ。まだ時間が早いので貸切状態だった。湯船はゆったりしているが、洗い場の数が少ないので登山客で混んでいるときにはちょっと厳しいかもしれない。

夕食は一階の食堂で。大山地鶏の鍋や大山おこわ、新鮮な山菜など、たいへん美味しくいただいた。ご主人もおばあちゃんもとても親切で、くつろげた。

伯耆大山に登る その五につづく)




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