大山寺から二重滝、阿夫利神社へ―2006秋の丹沢・大山詣で その二 | 楽土慢遊

大山寺から二重滝、阿夫利神社へ―2006秋の丹沢・大山詣で その二

所在地:
[大山阿夫利神社(下社)] 神奈川県伊勢原市大山355
交 通:
小田急線伊勢原駅、大山ケーブル駅行きバス終点下車、参道徒歩15分、大山ケーブル(山麓駅)から阿夫利神社(山上駅)

2006年9月10日(日):晴れ:大山寺→女坂→下社と見晴台の分岐→二重滝・二重社→下社手前の広場→阿夫利神社下社

■ (2006秋の丹沢・大山詣で その一からのつづき)「その一」では、大山ケーブルバス停をスタートし、八意思兼神社(追分社)の分岐から女坂に入って、大山寺に参詣した。今度は大山寺からさらに女坂を進み、二重滝に立ち寄り、阿夫利神社下社を目指す。

大山寺の本堂の向かって右側から裏手にのびる道を進み、その先の無明橋をわたる。無明橋は女坂七不思議のその五で、案内板では以下のように説明されている。

「話をしながら通ると、橋から下に落ちたり、忘れ物や落し物をしたり、悪いことが起きたりするという」

橋のそばに松尾芭蕉の句碑がある。

「山寒し 心の底や 水の月」

↑七不思議その六の潮音洞。案内板には「洞(ほこら)に近づいて心を鎮め耳を澄ませると遠い潮騒が聞こえるという」とある。当ブログの鎌倉散歩の記事を読まれた方ならわかると思うが、この石窟は鎌倉のやぐら(鎌倉に特有の横穴式の墳墓)を連想させる。ちなみに、宮崎武雄『相州大山―今昔史跡めぐり』(風人社)では、鎌倉のやぐらと結びつけて、この石窟がやぐらと表現されている。

女坂の終盤は急な石段がつづく。

忠霊塔が建っているところで右からくる男坂と合流し、さらに石段がつづく。

阿夫利神社に向かう前に、トイレのところから右に分かれる道に入る。見晴台に至る巻き道だが、その途中に二重滝がある。

分岐から10分ほど歩くと大山川にかかる石橋があり、その上流、目の前に二重滝がある。

滝のわきには阿夫利神社の摂社である二重社が建っている。ここで思い出されるのは、「その一」で大山寺の下のところに建っていた倶利伽羅竜王堂のことだ。かつてはあのお堂がこの二重社の場所に建っていたが、廃仏毀釈ののちに現在の場所に移され、二重社が作られた。

案内板では二重社が以下のように説明されている。

「二重社は阿夫利神社の摂社で、高龗神が奉祀されております。
 御祭神は殖産、灌漑、雨乞いの守護神で、霊験のあらたかさは、よく知られている所であります。特に萬物の生命の根源である「水」をつかさどり、俗に龍神にもたとえられて、廣く根強い信仰と崇敬が集められています。
 真摯なる祈りを捧ぐとき神威炳乎(輝やくの意)諸願は成就すると言われております」

二重滝については以下のような説明がある。

「大山川の源流をなし、大自然の巨岩が二段にわかれ、上段の断崖(ハケ)より突如として湧水し水場(ヤツボ)を形成、二段の岩壁に流れ出ずる所より二重の瀧と言われております。神聖にして清浄なる所から浄めの瀧とも呼ばれ、修験者の禊の行場でありました。
 又、江戸時代には、新年早々大工、鳶、左官職等の代表者が数日間下社に篭り二重の瀧に打たれ、心身を浄めてその年の賃金を決議したといわれています」

この記述には少し不自然な部分がある。「その一」で書いたように、江戸時代に下社の場所にあったのは大山寺だったからだが、これは阿夫利神社の案内板だからこのような表現になるのだろう。

案内板には呪いの杉についての説明もある。

「震災前までは、二重の瀧つぼのほとりに、樹齢千年をこす老杉がありました。
 この杉は、呪いの杉とよばれ神秘的凄愴の伝説が伝えられております。
 夜毎「丑の刻」に参り呪いの相手を形どった人形を杉の木にうちつけて呪いをはらしたといわれておりますが、現在は参道、道下の二本の杉がその面影を伝えております」

二重滝から来た道を戻り、分岐の手前にある近道の階段を上り、茶店のわきから下社手前の広場に出る。

阿夫利神社下社に向かって長い石段を上っていく。

石段を上りきったところから鳥居と拝殿を眺める。

天気のいい日にはこの鳥居の手前からの眺めが素晴らしい。平野部から相模湾まで一望できる。

平野部の向こうに相模湾、江ノ島や三浦半島が見える。

大山阿夫利神社の祭神は、大山祇神・高龗神・大雷神。境内の案内板には以下のように説明されている。

「大山は、またの名を「あふり山」という。あふりの名は、常に雲や霧を生じ、雨を降らすのでこの名が起こったといわれる。
 標高は、一二五一・七米で、関東平野にのぞんで突出している雄大な山容は、丹沢山塊東端の独立峰となっている。
 阿夫利神社は、古代からこのあたりに住む人達の心のよりどころとなり、国御岳(国の護りの山)・神の山としてあがめられてきた。山野の幸をつかさどる水の神・山の神として、また海上からは羅針盤をつとめる海洋の守り神、さらには、大漁の神として信仰をあつめると共に、庶民信仰の中心として、今日に及んでいる。
 山頂からは、祭りに使ったと考えられる縄文時代(紀元前一、〇〇〇年頃)の土器片が多く出土していて、信仰の古さを物語っている。
 仏教が伝来すると神仏習合の山となり、阿夫利神社は延喜式内社として、国幣の社となった。武家が政治をとるようになると、代々の将軍たちは、開運の神として武運の長久を祈った。
 引目祭、簡粥祭・雨乞い・納め太刀・節分祭・山開きなど、古い信仰と伝統にまもられた神事や、神に捧げられる神楽舞・神事能・狂言などが、昔のままに伝承されている。
 全山が四季おりおり美しい緑や紅葉におおわれ、神の山にふさわしい風情で、山頂からの眺望もすばらしい。都市に近いため、多くの人達に親しまれ、常に参詣する人の姿が絶えない」

拝殿のわきには権田直助の像が建つ。宇都宮泰長、鈴木隆良『大山不動と日向薬師 (1981年)』(鵬和出版)では、権田直助について以下のように記されている。

「明治時代になると、神仏分離により大山寺は取り払われ、その跡地に阿夫利神社下社がつくられ、大山の僧侶達は山から排除された。
国学者で祠官の権田直助は、阿夫利神社の再興と祭事の確立に奔走し、二百六十年振りに大山の主権を神官の座に回復した。直助は国学者として、町民や学童の教育にも力を入れたが、行きすぎた廃仏毀釈によって失われた仏教文化財も数多く、仏教徒に遺恨を残したのも事実である」

拝殿の左手に進むと、山頂に向かう登山口となる登拝門がある。この登拝門の柱には「奉納 東京日本橋 お花講」と刻まれていて、どんな講中なのか気になっていたのだが、前掲『大山不動と日向薬師 (1981年)』の記述で理解できた。

「毎年、七月二十七日から八月十七日までを夏山といい、七月二十七日未明には夏山開きの神事が行われるそうだ。この時、開門される頂上登拝門は、元禄年間(一六八八―一七〇三)から、江戸日本橋小伝馬町の「お花講」の講中によって開門されるのが慣わしであるという。山麓の先導師宅に宿を取ったお花講中は、白の行衣に身を固め造花を持って、午前一時に宿を出発し、提灯の明りを頼りに口々に「さんげ、さんげ、六根清浄」と唱えながら下社まで登り、登拝門の開扉の儀式になる等と聞くと、コンクリート構造の拝殿もなぜか古い木造建築に思えてきた」

それでは由緒ある登拝門をくぐり、大山山頂を目指すことにする。

2006秋の丹沢・大山詣で その三につづく)

《参照/引用文献》
● 『相州大山―今昔史跡めぐり』宮崎武雄(風人社、2013年)
● 『大山不動と日向薬師 (1981年)』宇都宮泰長、鈴木隆良(鵬和出版、1981年)

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