『暗夜行路』を入口に僧兵コースを歩く――伯耆大山に登る その二 | 楽土慢遊

『暗夜行路』を入口に僧兵コースを歩く――伯耆大山に登る その二

大山寺阿弥陀堂120503
所在地:
鳥取県大山町・琴浦町・江府町ほか
交 通:
JR山陰本線・米子駅→(大山寺行きバス54分)大山寺バス停→(徒歩約10分)夏山登山道登山口

2012年5月3日(木):曇りのち雨:吉野旅館→御幸参道本通り→蓮浄院跡→大山寺阿弥陀堂

■(伯耆大山に登る その一からのつづき)天候がよくないので本日の登山は諦め、大山情報館でいただいた「僧兵コース案内図」をたよりに大山寺周辺を歩くことに。最初に行きたい場所は決まっていた。志賀直哉ゆかりの蓮浄院跡だ。志賀直哉は大正3年の夏にこの宿坊に滞在し、そのときの体験をもとに『暗夜行路』の終盤にある大山を描いたといわれている。

10年ほど前には宿坊だった建物がまだ老朽化した状態で残っており、記念館として復元する計画が持ち上がったが、故人の遺志で説明板を設置するだけにとどまった。志賀直哉は遺言に「記念碑や記念館は一切断る事」と記していたという。いまはどうなっているのか。

荷物を預けた吉野旅館の前から参道本通りを上がっていく。GWだというのに、天気のせいか人影もまばらだ。好天であれば参道の先に大山の山容を拝めるはずだが、なにも見えない。蓮浄院跡は夏山登山道の入口にあるので、明日も同じ道を通ることになる。

足湯を過ぎ、土産物の岩田屋の角を右に曲がって進むと、佐陀川に出る手前にかなり立派なモンベル大山店が建っているのにちょっと驚く。こういう場所に専門店があるのは珍しいが、後で吉野旅館のご主人に尋ねてみたら、モンベルの経営者が大山に愛着を持っていて、ここに店を出したのだそうだ。

モンベル大山店の前で大山パークウェイに合流し、佐陀川にかかる大山寺橋を渡ると、左手に南光河原駐車場がある。けっこう車がとまっていて、登る準備をしている人たちがいる。さらに車道を少し進むと左手に階段があり、これを上がっていくと木立のなか、左側に蓮浄院跡の石垣が見えてくる。あとからきた登山客の集団がわれわれを追い抜き、夏山登山道を上っていく。

『暗夜行路』の主人公・時任謙作は、大山という淋しい駅で汽車を下り、俥(くるま)に乗り、車夫に案内されて大山に向かう。蓮浄院に到着する場面はこのように描写されている。

二人は河原を越し、急な坂路を薄暗い森の中へ登って行った。右が金剛院、左が一段高くなって蓮浄院だった

石垣のわきに設置された説明板には、このように記されている。「大山には、かつて100以上の僧坊があり大変にぎわっていましたが、明治のはじめの廃仏毀釈により急速に衰退し、今ではこの蓮浄院をはじめ洞明院、円流院、観証院(山楽荘)、理観院、金剛院(三鈷荘)、寿福院(不老園)、普明院(清光庵)の8院を残すのみとなりました

山に行くとさまざまなかたちで廃仏毀釈の傷跡を目にすることになる。

蓮浄院の入口だったと思われる石段は、前日の天候がそうとうな荒れ模様だったのか、あるいは以前からそういう状態だったのか定かではないが、折れた枝でふさがれていた。それをまたいでなかに入ってみると、かつての僧坊が瓦礫の山となって朽ち果てようとしていた。

『暗夜行路』の物語を思い出してみるならば、記念館を建てるよりも、朽ちていくのが相応しいのだろう。入口のわきにある桜の木は、風雨のためか枝が曲がっていたが、鮮やかな花をつけていた。

ここも地蔵めぐりのポイントで、登山道わきの石垣のうえには、蓮浄院地蔵が祀られている。

登山道を左に見送ると、その先にはもう人の姿はない。あいにくの天気ではあるが、地蔵や僧坊跡、神木、古寺、花などをめぐり歩くには悪くない。立て札などが折れたり、倒れたりしているのは、この冬、一帯が大雪に見舞われたからだろう。4月に入った頃の大山の登山道はまだ深い雪に覆われていた。しかしいまではわずかに残るだけだ。

恵鏡院地蔵、法蓮院跡、本智院跡などをめぐり、道なりに行くとやがて、大山寺周辺で最も古い建造物である阿弥陀堂が見えてくる。情報館で入手した「大山ぶらりまっぷ」によれば、室町末期の天文21年(1552年)に再建されたという。なかなか風格のある建物だ。

この阿弥陀堂は『暗夜行路』のなかでも印象的に描かれている。

永年人と人との関係に疲れ切ってしまった謙作には此所(ここ)の生活はよかった。彼はよく阿弥陀堂という三、四町登った森の中にある堂へ行った。特別保護建造物だが、縁など朽ち腐れ、甚く荒れはてていた。しかしそれがかえって彼には親しい感じをさせた

彼は阿弥陀堂の森で葉の真中に黒い小豆粒のような実を一つずつ載せている小さな潅木を見た。掌に大切そうにそれを一つ載せている様子が、彼には如何にも信心深く思われた

そして、阿弥陀堂や森で過ごす謙作の心境の変化がこのように表現される。

彼は青空の下、高い所を悠々舞っている鳶の姿を仰ぎ、人間の考えた飛行機の醜さを思った。彼は三、四年前自身の仕事に対する執着から海上を、海中を、空中を征服して行く人間の意志を賛美していたが、いつか、まるで反対な気持ちになっていた。人間が鳥のように飛び、魚のように水中を行くという事は果たして自然の意志であろうか。こういう無制限な人間の欲望がやがて何かの意味で人間を不幸に導くのではなかろうか。人智におもいあがっている人間は何時かそのため酷い罰を被る事があるのではなかろうかと思った

『暗夜行路』に描かれた阿弥陀堂のことばかり書いて、まだ実物の阿弥陀堂にほとんど触れていなかった。お堂の前の説明版には以下のように記されている。

重要文化財 大山寺阿弥陀堂:この建物はもともと常行堂として藤原時代に建立されたものといわれ、大洪水で破損したため天文二十一年(一五五二)古材を利用してこの地に再建されたものである。組物や柱など主な部分は鎌倉時代、三斗組、九柱、間斗束(けんとづか)などは弘安頃のものと推定され風格に富んでいる

この阿弥陀堂のなかには阿弥陀三尊像が安置されている。大山寺に参拝したときにもらえる案内には、以下のように説明されている。

阿弥陀堂内に安置されている阿弥陀三尊は三体とも国の重要文化財に指定されている。天承元年(一一三一年)大仏師良円によりつくられ、殊に阿弥陀如来は丈六の坐像(像高三、五三)の大作で藤原時代末期を代表する秀作です。

お堂の前に鎮座するお地蔵さまも、お堂とは違う意味で印象に残る。首の上と下では石の材質がことなり、首から上の部分は新たに彫ってつけられたものと思われる。

蓮浄院跡の説明版には、栄えていた僧坊が「明治のはじめの廃仏毀釈により急速に衰退し」たとあったが、このお地蔵さまの痛ましい姿も同じ事情によるのだろう。ちなみに、丹沢・大山の善波峠や裏参道には首が失われたままのお地蔵さまが立っている。

伯耆大山に登る その三につづく)

※阿弥陀堂の画像をもっとご覧になりたい方は以下のリンクから「阿弥陀堂:ギャラリー」にいけます。

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