大山寺から島根県に移動し、松江城を見物―伯耆大山に登る その七 | 楽土慢遊

大山寺から島根県に移動し、松江城を見物―伯耆大山に登る その七

所在地:
島根県松江市殿町
交 通:
JR山陰本線「松江駅」からレイクラインバス10分、松江城「大手前」下車

2012年5月5日(土):晴れときどき曇り:山楽荘→大山寺バス停→米子駅→(山陰本線)→松江駅→(ぐるっと松江レイクラインバス)→松江城(大手前)バス停→松江城→堀川地ビール館バス停

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■(伯耆大山に登る その六からのつづき)「その六」は弥山の山頂から下山し、大山寺の宿坊・山楽荘に泊まったところで終わった。スケジュールでは今回の山歩きは昨日で終わり、旅の最終日となる本日は大山寺の町を離れ、鳥取から島根へと移動する。6:00前に起床し、身支度を整えて1階の食堂で朝食をいただく。7:10に出る朝一番のバスに乗るために7:00少し前に山楽荘を出る。

御幸参道本通りを下っていく途中で、ふと振り返って建物の向こうに山が見えることに驚いた。大山寺に来てから一昨日も昨日もガスに覆われていたため、妙な表現だが山が見えないことに慣れてしまっていたのだ。方角からすると、宝珠山のようだ。

さらに本通りを下っていくと、朝日がさしこんできて、天気がいいことがわかった。通りの先に目をやると、米子方面の平野部まで見えている。

バス停の手前まで来たところでまた振り返ってみると、ちょうど一昨日泊まった吉野旅館の向こうに、朝日を浴びる大山の北壁がそびえていた。天候に恵まれていれば、吉野旅館の部屋からはこんな光景がゆっくり眺められたわけだ。しかし、行者谷から吹き上げてくるあの猛烈な風もいい経験になったと思う。

バス停の近くから再び北の方角に目をやる。霞んではいるが、樹林の向こうに美保湾の海岸線が見える。海を眺めることができてよかった。

7:10発のバスに乗り込み出発。バスの窓から遠ざかる大山を眺める。頂上部に雲がかかっているが、今日登る人は素晴らしい展望を味わうことができるだろう。

バスで米子駅に到着。山陰本線で松江に向かう。本日の最初の目的地は松江城だ。(マップの下につづく)

■ 松江駅に到着。松江市殿町にある松江城までは歩けないこともないが、ぐるっと松江レイクラインという便利なバスがある。松江駅を起・終点に20分~30分間隔で運行する周遊バスで、観光施設や観光スポットなど33か所の停留所に停まる。

われわれはレイクラインバスに乗り、「大手前」で下車。

松江城には全国に現存する12の天守のひとつがそびえる。

「大手前」バス停のそばからは、島根県庁が建つかつての三の丸、千鳥橋、二の丸、そして広い内濠がまず目に入る。

内濠に沿って大手門跡へと進む。内濠の向こうには、二の丸南東部にある南櫓、中櫓、少し木に隠れた太鼓櫓が見える。この三基の櫓はいずれも平成13年に復元されたもの。

大手木戸門跡の手前から石垣越しに天守方向を眺める。松江城の標柱の向こうに、天守の最上部が見える。

大手木戸門跡を通って馬留跡に入る。右上に太鼓櫓があり、右手が大手門跡になる。

大手門跡を抜けた場所から天守を見上げる。そのとき目を奪われたのが、手前で白い花を咲かせている不思議な木だ。

その名前はヒトツバタゴ(別名:ナンジャモンジャ)。とても珍しい木だという。

ヒトツバタゴの隣のクスノキも素晴らしい。平成3年の調査で、胸高 直径160cm、樹高14m、樹齢(推定)350年とのこと。巨樹信仰に関心を持ち、木を愛する筆者にはたまらない。

三ノ門跡を抜けて二ノ門跡までやって来る。

二ノ門跡の左手奥に松江神社がある。祭神は、松平直政(松平初代藩主)、堀尾吉晴(松江開府の祖)、松平治郷(不昧)(第七代藩主)、徳川家康。案内板には以下のように説明されている。

明治十年に旧松江藩の人々によって、川津村(現松江市西川津町)楽山に松平直政公を御祭神として楽山神社が創建されましたが寛永五年(一六二八年)堀尾忠晴公朝酌村西尾(現松江市西尾町)に創建した東照宮を明治三十二年に合祀し当地に御遷座松江神社と改称されました。
又昭和六年に、松江開府の祖 堀尾吉晴公、松江藩中興の名主・不昧流茶道始祖松平治郷(不昧)公を配祀し今日に至っております。
本殿は寛永五年(一六二八年)、拝殿は寛文元年(一六六一年)建造の権現造り、手水舎は寛永十六年(一六三九年)建築されたものです」

松江神社わきのクロガネモチの木。赤い実が鮮やかだった。

一ノ門をくぐり本丸へ。アトラクションのために忍者に扮した人の後姿もある。

千鳥城ともいわれる松江城は、先述したように全国に現存する12の天守のひとつ。

石井悠『松江城と城下町の謎にせまる』(ハーベスト出版)によれば、一階の床面積で姫路城に次ぐ二番目の規模を持ち、建物自体の高さ(天守台石垣を除く)では、姫路城・松本城に次いで三番目になり、創建順位では五番目と考えられているという。

先ほどの松江神社の祭神である松江開府の祖・堀尾吉晴が5年の歳月をかけて建造し、慶長16年(1611)には完成をみていたという。

天守は「前面に付櫓をもつ五層六階の複合式天守」で、「付櫓前面、四階張出部屋根の四面、五階の屋根東西両側面に千鳥破風を見せる。松江城を千鳥城とも呼ぶが、この破風に由来するものと思われる」(前掲同書)。

私たちが霊山に登ると明治時代の神仏分離、廃仏毀釈の傷跡をしばしば目にするように、城郭の歴史にも明治時代の悲劇がつきまとう。

「廃城令により明治八年(一八七五)、広島鎮台は松江城の諸建造物と三の丸御殿を民間に払い下げることにして、入札を行った。天守を除く建物は四円から五円で落札され、ことごとく取り壊された。天守は一八〇円で落札されたが、城のなくなるのを惜しんだ出雲の豪農・勝部本右衛門や元藩士の高城権八が資金を調達し、買い戻した。当時米一俵が三円弱といわれていた」(前掲同書)

天守を見物したあとは、北ノ門跡を抜け、馬洗池のわきを通って北西の出口を目指す。

内濠にかかる稲荷橋と新橋をわたってバス通りに出る。こちらの内濠沿いには飲食店が並んでいる。

腹もすいてきたので、まず「たこ昌」に入り、内濠の風景を眺めながら地元のイカを使った変わりダネのたこ焼きを食べる。店を出てバス停まで歩く。そのバス停のわきに「松江堀川地ビール館」があり、バスが来るまでの間に地ビールで喉を潤した。

今度は、バスで松江駅に戻るのではなく、一畑電車の松江しんじ湖温泉駅に行き、出雲大社を目指す。

(伯耆大山に登る その八は準備中です。しばらくお待ちください)

《参照/引用文献》
● 『松江城と城下町の謎にせまる―城と城下の移り変わり―』石井悠(ハーベスト出版、2013年)

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