菅谷不動尊(諸法山菅谷寺)に参詣する――新潟の温泉・霊場巡り その二 | 楽土慢遊

菅谷不動尊(諸法山菅谷寺)に参詣する――新潟の温泉・霊場巡り その二

所在地:
新発田市菅谷860
交 通:
JR新発田駅より新発田市コミュニティバス、「菅谷」下車すぐ

2015年8月11日(火):曇り:新発田城跡―(徒歩)→中央町たまり駅―(徒歩)→新発田駅―(新発田市コミュニティバス)→菅谷バス停→菅谷不動尊(諸法山菅谷寺)→菅谷バス停

■ (新潟の温泉・霊場巡り その一からのつづき)新発田城の見物を終え、今度は新発田駅からコミュニティバスに乗るために駅に戻る。横浜や東京ほどではないが、やはり暑い。目抜き通りまで来たところで、商店の間に“たまり駅”という無料休憩所があることに気づく。冷房が入っていて、トイレもあり、冷たいお茶も用意されている。バスの出発まで時間があるので、しばらく涼むことにする。

観光案内所でもらったマップをチェックすると、寺町エリアには、われわれが入った中央町たまり駅のほかに、諏訪町たまり駅、寺町たまり駅など複数の休憩所があることがわかる。壁には月岡温泉や新発田城の観光ポスターが貼られているが、地方再生に関心がある筆者の目が行ったのは、移住・定住支援の告知。新発田市は、住宅所得補助金及び空き家バンク制度祝金補助金、空き店舗出店助成金、空き店舗等対策資金融資などの制度によって、定住促進・活性化を図っている。

たまり駅を出て、新発田駅に戻ってきた。次の目的地は菅谷不動尊。寺名は菅谷寺。地名や不動尊がつく場合は「スガタニ」と読むが、寺名は「カンコク」と読む。

バスのりば4番線から11:20発、上荒沢・熊出方面行きの新発田市コミュニティバスに乗り、菅谷で下車する。11:47到着。バスを降りると、「北越之霊場 菅谷不動尊」と刻まれた碑がすぐに目に入る。その一でも触れたように、この霊場は最初から訪ねたいと思っていた場所のひとつだ。

これまであまりはっきり書いていなかったと思うが、筆者が不動尊や不動信仰に関心を持つのは、それが修験道と深く結びついてるからだ。宮家準の『修験道思想の研究<増補決定版>』では以下のように説明されている。

「修験道では、前節で見たように、種々の仏菩薩や神格が崇拝対象とされている。しかしながらこれらの中で修験者が最も深く信仰し、修行や祈祷の際の本尊としているのは不動明王である。たしかにその歴史を見ても、修験道は不動明王と密接な関係を持っている。すなわち、修験者の先駆をなす平安時代の験者たちの間では、不動法をはじめ不動明王を主尊とする修法が好んで行なわれていた。そして鎌倉時代以降、熊野を拠点とした本山派の修験者を統轄した三井寺は台密の拠点で、円珍以来不動信仰が盛んな寺院であった。また室町時代末期以降当山派修験を掌握した醍醐三宝院でも、不動明王は重視されていた」

「こうした本寺や密教僧侶を通して知らされた不動明王の神格が、荒ぶる神の力を体得して鬼神を使役することを志す修験者の志向にうまく適合したせいか、不動明王は平安時代末期から鎌倉時代には、修験道における主要な崇拝対象になっていった。なかでも三井寺修験の祖円珍、比叡山に修験行を導入した相応、さらに熊野の那智の滝で修行した文覚などの不動明王信仰は弘く知られている。そして室町時代になると、不動明王は金剛蔵王権現の信仰にとってかわって、修験道の本尊の位置を占めるようになっていくのである。その後江戸時代に入ると、修験者たちは地域社会に定住して、庶民の現世利益的希求に応えて、もっぱら加持祈祷に従事したが、彼らのほとんどが、その本尊を不動明王としているのである。このように不動明王は特に中世末期以降、修験道の中心的な崇拝対象とされてきたのである」

石造りの瞻仰橋を渡り、参道を進むと、左手には本坊の入口があり、右手には嗽場の手前に境内案内板がある。この案内板の絵図が興味深い。菅谷寺の背後にそびえる山の名前は大峰山で、修験道のメッカである奈良の大峰山を想起させる。「大峰山馬越沢登山道」という道も開かれているが、その入口は位置的に霊場から切り離されているようにも見える。比較的新しい道なのかもしれない。また、本堂の左手の山道を登っていくと、最も奥まった場所に日吉神社があり、神仏習合の名残をとどめている。

石段の先に堂々とした山門が見えてくる。山門の前後の通路には雪よけのための三角屋根が設置されている。鉄灯籠の一方が何らかの事情で倒れてしまったらしく、その灯籠が山門の柱に括りつけられている。寺の栞には以下のような説明がある。

「現在の山門は、村上の宮大工板垣伊兵衛の指揮のもと、木挽き、大工、石工など、延人数、五千有余、実に八年の歳月をかけ、慶応二年(1866)に上棟した総欅造りの楼門である。楼門周囲の桁間には、美しい十二支の彫刻が施されている」

山門の仁王像には、白い紙のようなものが腹部や手などに付いているが、これには説明が必要だろう。

「両袖に立つ阿うんの仁王様には噛んだ「紙つぶて」を体の悪い箇所に吹きつけ、病気の平癒を祈った信仰があり、今にその跡がうかがわれる」(寺の栞より)

山門をくぐって石段を上り、直進すると本堂になるが、その参道の右手にも様々なお堂が並んでいるので、そちらからお参りする。まず弁天堂。

「祀られている弁財天は俗に七福神のひとつ弁天さまといい財福・音楽の女神であると同時に、知恵の神様ともいわれ、いつの頃からか女の人が心願の成就を祈るため、大切な頭髪や髪飾りを奉納するようになった。
 元来、弁財天はインドの聖河の化身と云われ当初、当地の弁天池にあったものを明治年間、みたらしの滝脇に移建し、平成元年、旧に復し堂宇を建立、遷座したものである」(同上)

弁天堂の左手後方には、小さな赤い鳥居と祠が見られるが、弁天堂のはす向かいには天満宮が鎮座している。ここにも神仏習合が見られるが、土台が比較的新しく見えるので、どこか別の場所にあったものを移築したのかもしれない。

弁天堂の左手には地蔵堂が建っている。

「元文五庚申年(1740)と享和四甲子年(1804)の刻銘がある古い地蔵尊で、延命地蔵・子育地蔵として童子、老若男女を問わず信仰を聚め、山内で最も参詣者の心中身近に親しまれている仏様である」(同上)

参道脇にある垢離場。石造りの不動明王の背後から水が流れてくる。

開基である源頼朝の叔父、源慈應護念上人を供養する上人碑と宝篋印塔。手前は柴燈大護摩炉。左手奥に鐘楼。護摩を焚き、修法を行なう場だけあり、独特の空気が漂っている。

上人碑の背後の目立たない場所にあるが、個人的にとても印象に残った籠堂。

「昔より主に重い眼病・当病の人々が平癒成就の為、此の御堂に篭りし、ひらすら精進祈願した行堂でその名がある。
 戦前までは、門前の旅篭屋に数カ月から一年も泊まって一日六回この御堂で専心念佛を唱えて、その声と鐘の音が山内に鳴り渡った。
 此の鐘(現在本堂に有り)には天明四(1784)の銘があり往時を偲ばせてくれる」(同上)

当時は今よりもはるかに山深く、やって来るのも容易なことではなかったはずだが、門前は栄え、コミュニティを形成していたのかもしれない。

それでは本堂にお参りすることに。略縁起によれば、諸法山菅谷寺は、約800年前、源頼朝の叔父、源源慈應護念上人によって創建された。

「本尊不動明王は、印度のビシュカツマの御作で、其後印度から中国を経て、更に伝教大師によって、、我国に請来された所謂三国伝来の尊い御像であります。
 爾来比叡山無動寺に安置されてありましたが、鎌倉時代に至り叡山に在って専心仏道修行中の護念上人が故あって、日頃最も深く尊信帰依し奉ったこの尊像の御頭だけを笈に納めて廻国修行の後、当菅谷の里に至った際、たまたま不思議な霊感によって、ここを結縁の地と感じ一宇を建て、本尊を安置し奉ったのに創まります」(同上)

さらに縁起にからんで興味深い記述が。「宝前では拍手を打ち、山内は神仏混淆、修験の姿を今によく残して」いる。このように神仏習合や修験の痕跡を残している霊場はなかなか珍しいのではないだろうか。先述した絵図にある薬師山、開基護念上人の墓、箱岩峠、古城山、寺境の沢、大峰山山桜など、周囲の山も歩きたくなるような魅力的な霊場である。

山と緑に囲まれ、静謐な空気が漂う本堂には以下のような歴史がある。

「現在の堂宇は、明和七年(1770)に再建されたもので入母屋造のお堂である。昭和三十八年草葺屋根から銅版屋根に葺きかえられた。内部は、本尊保安殿(昭和五十六年完成)内陣・外陣に分けられ、本尊宝前にて護摩を修する真言密教の根本道場である」(同上)

本堂の左手にはさらに参道がつづき、お堂や礼拝所が並んでいる。まず開山堂。

「開基源慈應護念上人をお祀りする御堂である。上人は薫修中の比叡山無動寺より平家の圧力を逃れて不動明王をお持ちになり、本尊として当寺を開山された鎌倉時代の聖僧である。
 上人に因んで源氏ゆかりの「笹りんどう」を寺紋としている」(同上)

開山堂の隣には薬師堂。このお堂が絵図にあった薬師山とつながりがあることは容易に想像できる。

「祀られている薬師如来は寛永三丙寅(1626)年、中興の祖観山によって米山薬師から勧請されたと伝えられ、はじめ鳥屋の峰に、ついで西方薬師山に堂宇が建てられてあった。
 平成元年当堂に安置。御前立尊像は左手に薬壷を持ち衆生の難病を救って下さる佛様である」(同上)

そして本尊とも関わりがある伝承を持つみたらせの滝。右手上方から滝が流れ落ち、左手の緑のなかに滝不動が立っている。

「承元四年(1210)源頼朝の寄進により建立された七堂伽藍は、建長五年(1253)の春、雷火の為悉く焼失したが、その時ご本尊のみは「みたらしの滝の中に数多のたにしに守られ尊像は毫も損じ給はず」と御縁起にあり、誠に不思議な霊験を今に伝えられている。
 爾来、滝つぼに「たにし」を奉納し、滝不動に水をかけ多くの人々に親しまれている。又この水は、古くから眼病に卓効の霊水としても知られている」(同上)

実際に滝の前に行くとわかるが、滝不動は滝つぼに隔てられた、離れたところに立っている。柄杓で水をすくってそこまで飛ばすのはけっこうたいへんである。筆者が訪れたときには、年配の男性が何度も水を飛ばしていた。

みたらせの滝から先は上りの山道になり、切り通しのような道を上っていくと開けた空間に出て、その奥にこじんまりとした日吉神社が鎮座している。

神社の左手には、寺の本坊の脇に出る山道があり、道の手前に湯殿山と刻まれた碑がたっているが、この霊場とのつながりはわからない。

神社から参道を戻り、山門のベンチで小休止し、菅谷バス停に戻ってきた。周辺には何軒か旅館が建っている。閑散としているように見えるが、行事があるときには風景ががらりと変わるのかもしれない。数日後の8月14・15日は盂蘭盆法要にあたっているが、行きのバスに貼られていた告知によれば、その期間だけバス停が移動するということだった。それは門前が混雑することを意味しているのではないか。いいお寺なので、行事にかぎらず門前がもっと賑やかになればと思う。

われわれはバスで新発田駅に戻り、諏訪神社に参詣して、江戸時代の庭園・清水園を散策することにする。

新潟の温泉・霊場巡り その三につづく)

《参照/引用文献》
● 『修験道思想の研究<増補決定版>』宮家準(春秋社、1999年)

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