新潟に向かい、新発田城を見物する――新潟の温泉・霊場巡り その一 | 楽土慢遊

新潟に向かい、新発田城を見物する――新潟の温泉・霊場巡り その一

所在地:
新潟県新発田市大手町6丁目
交 通:
JR白新線・羽越本線新発田駅より徒歩約20分

2015年8月11日(火):曇り:東京駅―(上越新幹線)→新潟駅―(白新線)→新発田駅―(徒歩)→新発田城

■ 今年(2015年)の夏は、これまで列車で通過することはあっても目的地にしたことがなかった新潟を訪ねることにした。まずは、新潟を中心に行きたかった、あるいは気になっていた山、霊場、温泉などをピックアップ。二王子岳、菅谷不動尊、月岡温泉、五頭山と五頭温泉郷(なかでも出湯温泉)、慈光寺と白山、彌彦神社と弥彦山と弥彦温泉、そして新潟の白山神社などなど。

ところが、電車やバスの時刻表や接続を調べて愕然とした。どこも予想外に本数が少なく、接続も厳しい。二王子岳(標高1420m)は、新発田駅から二王子神社登山口までバスで30分、下車後、徒歩で80分、登山口から山頂まで約4時間。ピストンで下りてきても宿泊地までの移動に悩まされる。五頭温泉郷も羽越本線と水原駅からのバスの本数が限られ、五頭山に登るとなると前後の移動に頭を抱える。

慈光寺はよく知られた禅寺だと思うが、これまた本数が少ない磐越西線の五泉駅で下車し、旧村松駅までバスで10分、そこからさらにタクシーで15分。五泉駅まで戻って次の宿泊地に移動することを考えると、参詣するのが精一杯で、慈光寺が登山口になっている白山に登るのは難しい。

ということで、あまり考えても仕方がないと観念し、月岡温泉、出湯温泉、弥彦温泉の宿を予約し、往復のチケットを確保し、あとは成り行きにまかせることにした。どうにもならなかったら温泉でゆっくりするのも悪くない。

朝5時台の電車で東京駅に向かう。上越新幹線のホームで弁当を購入し、6:08発の「とき」301号に乗り込む。前日の午後まで原稿を書いていて、焦り気味で買い物や準備などをしてきたので、どっと疲れが出て眠り込む。ひと眠りしたおかげでだいぶ回復する。

8:12に新潟駅に到着。在来線の白新線のホームに移動し、8:27発の特急「いなほ」1号に乗り込む。列車の観光案内を眺める。「いなほ」は新発田を過ぎると、鶴岡や酒田の方に向かう。出羽三山や鳥海山に登ったときのことを思い出す。おすすめ名産品として紹介されている「鮭の酒びたし」はお土産に買ってかえるつもりだ。以下説明「雄鮭を塩で仕込み、冬の寒風にさらし、さらに半年じっくり干し上げ、旨みを凝縮・熟成しました」。

途中にある豊栄駅。本日は月岡温泉に泊まる予定だが、この駅からは月岡温泉に向かうシャトルバスが出ている。豊栄駅発が1日5便、月岡温泉発が3便(月岡温泉観光協会ホームページのアクセスを参照)。以前は新発田駅からもシャトルバスが出ていたが中止になったとのこと。ただし、新発田駅から月岡温泉に行く路線バスは出ている。われわれはそのバスで月岡温泉に行くことにしている。

8:50に新発田駅に到着。駅前のロータリーには、菅谷不動尊がある菅谷や月岡温泉に行くバスが出るバス停がある。ロータリーの向こうには竹内旅館や新発田第一ホテルが見える。駅舎やバス停、竹内旅館は、新発田城を意識してイメージや色調を統一しているのかもしれない。

とりあえず駅の観光案内所に行き、情報を仕入れる。まず菅谷に行くコミュニティバスと月岡温泉に行くバスの時刻表をもらう。実は新発田駅に到着した5分後の8:55に菅谷に向かうバスが出るのは知っていて、ホームからもバスが止まっているのが見えていた。本来ならバスでないと行けない遠い場所に先に行っておきたいところなのだが、このバスに乗ってしまうとなかなか駅に戻ってこられなくなる。菅谷に到着するのが9:18で、次に出る新発田駅行きが9:52発。そんな短い時間ではゆっくり参詣もできないから乗るはずもないが、その次はなんと13:02発になってしまう。これではさすがに時間を持て余すことになる。

そこで新発田駅発11:20のバスに乗ることにし、それまでに新発田城を見物することに。城址までは徒歩約20分。案内所の女性に、どのように歩くのがよいか教えていただく。案内所で配られているマップでは、表門に出るための道順が示されているが、途中で別の道を進み、三階櫓から堀に沿って表門に回り、地図の道を戻るのがよいということになった。

新発田駅前から目抜き通りを進んでいく。街並みは昭和の空気を漂わせている。本町交差点を直進し、第四銀行が建つ中央町交差点を右折し、角に裁判所が建つ交差点を左折して道なりに進み、郵便局の先のT字路を左折して道なりに進むと、右手に新発田城址公園が見えてくる。

城址公園は緑の芝生に覆われた広々とした公園で、中央には木を囲むようにベンチが並べられ、奥には東屋も建っている。そして公園の向こうに、堀を挟んで新発田城の天守に相当する三階櫓が見える。

新発田城の築城者は、新発田藩の初代藩主・溝口秀勝。秀勝は、尾張国(現愛知県)中島郡溝口村の出身で、慶長3年(1598)に豊臣秀吉の命により6万石を与えられ、加賀国(現石川県)大聖寺から新発田に入封した。慶長5年の関ヶ原の戦いでは徳川方についた。

入封した秀勝は、上杉景勝に滅ぼされた新発田重家の館跡に築城を開始した。その秀勝は慶長15年に没し、築城は宣勝に引き継がれ、三代目宣直の代の承応3年(1654)に完成した。

溝口氏は外様大名でありながら12代にわたって新発田を動くことがないまま明治維新を迎えた。明治時代初頭、城内には11棟の櫓と5棟の門があったが、明治6年の廃城令によってほとんどが取り壊され、堀も埋め立てられた。現在は、表門と旧二の丸隅櫓、本丸石垣と堀の約半分、旧土橋門付近の土居が残っている。

城址公園がある場所は、かつての二の丸の一部ということになる。城郭は、本丸を二の丸が取り囲み、三の丸が南に向かって突き出しているという独特のかたちをしていた。これは南以外の三方が湿地で、天然の要害になっていたからだという。われわれは南の方から歩いてきたが、裁判所の交差点では、すでにかつて三の丸があった場所に入っていて、郵便局がある場所がかつての三の丸と二の丸の境界にあたり、T字路はかつての外堀ということになる。

城址公園には掘りに沿う遊歩道の脇に桜の古木が並んでいる。どの木も幹に空洞が目立つが、葉は青々と茂っている。花が咲く時期には城郭とのコントラストが画になることだろう。

先述したように江戸時代から現存する城郭建築物は本丸表門と旧二の丸隅櫓だけで、われわれが城址公園から眺めている三階櫓は、平成16年に辰巳櫓とともに復元されたものだ。厳密にいえば、三代目宣直の代に完成した城は15年後の寛文9年に消失し、延宝7年(1679)に再建され明治を迎えたので、復元されたのはこの再建された三階櫓になる。

天守に相当する櫓だが、幕府に遠慮して天守の名称は用いなかった。最上層の屋根の棟が丁字型で、三匹の鯱が載っている櫓はここだけだという。外部は白漆喰塗りで、各層の腰壁は平瓦を下に貼り、目地を漆喰で盛り上げた海鼠壁で仕上げられている。

堀に沿った遊歩道を正門方向へと進んでいくと旧二の丸隅櫓が見えてくる。こちらは江戸時代から残存する建造物だが、名前が示しているようにもともとここに建っていたわけではない。二の丸北側に残されていたものを、昭和34年から35年にかけて解体修理し、この本丸の鉄砲櫓跡に移築したという。腰壁はやはり白と黒の海鼠壁で仕上げられている。

旧二の丸隅櫓の右手に見えるのは、本丸と二の丸の間に設けられた帯曲輪(おびくるわ)の一部だった土塁。二の丸から土橋を渡った帯曲輪の手前には土橋門が設置されていたという。

土橋門跡に立つ説明版には、その役割が以下のように説明されている。「この土橋門と帯曲輪、そして本丸の表門及び鉄砲櫓により、櫓を併用した枡形門に等しい防御機能を持たせていました」。

土橋門の方向から見た本丸表門。先ほどの旧二の丸隅櫓とともに江戸時代から現存する建築物。表門の右手、木の葉に隠れるように辰巳櫓が建っている。

平成16年に三階櫓とともに復元された辰巳櫓。このページのトップの写真のように、辰巳櫓、表門、旧二の丸隅櫓が並ぶととても画になる。

表門は、桁行九間(約16.3m)、梁間三間(約5.4m)で、寛文8年(1668)に起きた大火の後、享保17年(1732)に再建されたと伝えられている。二階建ての櫓門で、二階の正面に敵を攻撃するための「石落し」というしかけがある。腰回りはやはり海鼠壁で仕上げられている。

城址として残る区域の背後は陸上自衛隊の駐屯地になっていて、その先に三階櫓が眺められる。本丸と二の丸の約半分は、廃藩置県後、陸軍省の管轄となり、第二次大戦まで歩兵第16連隊の兵営として使われ、昭和28年(1953)からは陸上自衛隊が駐屯し、現在に至っているという。

順路の標識に従ってまずは辰巳櫓に通じる石段を上る。辰巳櫓の説明版には以下のような記述がある。「辰巳櫓は、表門に向かって正面右手、本丸から見て南東(辰巳)の位置にあり、本造の二層二階櫓で、入母屋造、本瓦葺きです。
 かつて、赤穂義士堀部安兵衛の父が管理責任者で、櫓の焼失の責任をとって浪人となりました。その後、安兵衛は、家名再興のため江戸に出て、高田馬場の敵討によって名を遂げました。
 平成16年6月に復元しました」

内部も忠実に再現され、昔通りの急な階段で二階にも上がることができる。写真はその二階から堀を見下ろしたところ。一階の床の一部がガラス張りになっていて、礎石などの基礎部分が見られるようになっている。ここには女性の職員がいて、いろいろ説明してくれた。

次は順路2になり、表門二階に通じる石段を上る。二階の内部には、復元工事を記録した写真や建造物のミニチュア、歴代藩主など、様々な資料が展示されている。

最後の順路3は、石垣の上を歩いて、少し離れた旧二の丸隅櫓に通じる道を進む。この道から、堀を隔てた土橋門跡の土居を眺めると、かつての帯曲輪のイメージが想像できる。

旧二の丸隅櫓も、中に入って、急な階段で二階にも上がれる。こちらには展示物はない。江戸時代から残存する建築物だけあり、外から差し込むやわらかい光と、独特のつやを放つ床、柱、梁などが静謐な空間を作り上げている。

帰りに道路を挟んで表門の向かいにある安兵衛茶屋でひと休みする。ここには堀部安兵衛像がたっている。われわれは行かなかったが、新発田城を出発点に、安兵衛生誕の碑や、安兵衛手植えの松がある長徳寺など、安兵衛ゆかりの地をめぐるコースなどもある。予約すると、ボランティアの観光ガイドが案内してくれるらしい。

新潟の温泉・霊場巡り その二につづく)

《参照文献/資料》
● 『名城の日本地図』西ヶ谷恭弘(文藝春秋)
● 「新発田城」観光パンフレット

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