酒田の土門拳記念館と海向寺の即身仏――鳥海山に登る その六 | 楽土慢遊

酒田の土門拳記念館と海向寺の即身仏――鳥海山に登る その六

海向寺
所在地:
土門拳記念館:酒田市飯森山二丁目13番地(飯森山公園内)/海向寺:酒田市日吉町二丁目7-12
交 通:
土門拳記念館:JR酒田駅よりるんるんバス約16分(土門拳記念館下車)/海向寺:JR酒田駅よりバス5分寿町下車、徒歩5分

2011年8月15日(月):晴れ:のとや旅館→酒田駅→土門拳記念館→海向寺→酒田駅→新潟駅→東京駅

■(鳥海山に登る その五からのつづき)昨日は湯ノ田温泉・のとや旅館に泊まった。山歩きは昨日までで、本日は酒田の街を散策する予定なので、朝はゆっくりする。

電車で移動する場合、最寄り駅は羽越本線の吹浦駅となるが、湯ノ田温泉からはけっこう距離があるうえに、特に午前中は通勤の時間帯を除くと、本数が少ないというよりはほとんどないに等しい。本来なら通勤の時間帯に間に合うように宿を出なければならないところだったが、その五で書いたように宿のおかみさんが車で送ってくださるとのことで、とてもありがたかった。

10:00頃に酒田駅に到着。まず近くのコンビニに行き、山で必要な荷物だけを家に送り、身軽になる。それから駅の案内所に行き、また観光用自転車を借りる。その一で書いたように、これは無料で、街のなかに十数か所ある貸出所のどこで返却してもいい。

駅から最初に向かうのは、町の郊外にある土門拳記念館。酒田出身の写真家・土門拳の美術館だ。われわれはもちろん自転車だが、土門拳記念館公式サイトでは、酒田駅からタクシーで10分、るんるんバス酒田駅大学線で16分(土門拳記念館下車)と説明されている。

駅からの道はわかりやすい。まず駅前の道を直進し、御成門の交差点を左折し、国道を道なりに進む。橋を渡り、さらに道なりに進むと最上川にかかる出羽大橋に出る。これを渡ってさらに進み、セブンイレブンのある交差点を左折、道なりに行くと左手に飯森山公園が見えてくる。記念館はこの公園のなかにある。

記念館の前面には白鳥池、背後には飯森山。自然との調和を考慮し、水や山に親しめる構造になっている。またここはわれわれが登ってきた鳥海山が眺望できる絶好の場所にもなっているのだが、あいにく山は雲に隠れていた。記念館でもらったパンフには以下のように説明されていた。

土門拳記念館は日本最初の写真専門の美術館として、また個人の写真記念館としては世界でも唯一のものとして誕生した。土門拳の全作品約70,000点を収蔵し、その保存をはかりながら順次公開する

館内の展示スペースは、主要展示室、企画展示室Ⅰ、企画展示室Ⅱに分けられ、だいたい2、3ヶ月ごとに内容が変わる。われわれが訪れた8月15日は、主要展示室が「古寺巡礼―土門拳仏像十選―」、第一展示室が「ヒロシマ」、第二展示室が「第30回土門拳賞受賞作品展:石川直樹[CORONA]」だった。筆者はそのスケジュールまではチェックしていなかったが、最も見たかったのが「古寺巡礼」と「ヒロシマ」だった。

入口を入ると通路の先には企画展示室Ⅰの空間がある。8月15日に「ヒロシマ」は当然の選択だが、3.11以後の現在ではその世界がより厳しく迫ってくる。誰もが原発事故を意識してそれらの写真と向き合っているに違いない。

そして、企画展示室Ⅰと段差とガラスで仕切られた主要展示室に移動する。大きなソファも置かれたゆったりした空間のなかで、「古寺巡礼」の仏像と向き合う。そこには、私たちが実際に寺を訪れ、本物の仏像と向き合っても見えないものがとらえられている。実際に写真と向き合えば誰もがそう感じるはずだ。

岡井耀毅の『土門拳の格闘』(成甲書房、2005年:amazon.co.jp→土門拳の格闘 )には以下のような記述がある。

被曝十三年後のヒロシマの現実に深く関わっていく写真家の自覚と責務は、土門拳においては、同時に、日本の姿への執着、いわば「日本」の原像へとさかのぼっていく必然を内包していた。ヒロシマを凝視するほどに日本及び日本人の有り様に深い関心を抱かざるを得なかった。もともと「文楽」や「室生寺」を撮った土門拳である。以後の土門拳は、「筑豊のこどもたち」を主題化したように社会問題をきびしく精撮していく一方で「古寺巡礼」など民族文化の淵源へのまなざしを深めていくのである

「ヒロシマ」と「古寺巡礼」はまったく違う題材のように見えるが、こうしてつづけて見てみると、そこには深いつながりを感じる。だからこそ「ヒロシマ」は、時代を切り取る社会派的な記録としてではなく、より普遍的な意味を持つものとして3.11以後の時代を生きる私たちに迫ってくるのだろう。(以下、地図の下につづく)

■土門拳記念館から観光用自転車で今度は即身仏が祀られている真言宗智山派 砂高山海向寺に向かう。内藤正敏の『日本のミイラ信仰』(法蔵館、1999年:amazon.co.jp→日本のミイラ信仰 )の序章は、以下のような記述から始まる。

江戸時代の山形県庄内地方で、“即身仏”とよばれるミイラを拝む信仰が集中的に起こった。出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山)の一つ、湯殿山の行者が、穀物を断つ木食行をおこない、生前から肉体の脂肪分を落とし、最期は生きながら土の中に入って断食死する土中入定の末、三年三ヵ月後にミイラ化して掘り出され、即身仏として寺に祀られた

山形県内には、知られているだけで8体の即身仏が祀られている。筆者は2005年の夏に、出羽三山に登ったあとで、一泊した湯殿山参篭所から六十里越街道を歩き、大日坊に参詣し、真如海上人の即身仏を拝んだ。そして今回は、鳥海山に登ったあとで、海向寺の即身仏を拝む。

海向寺は、その一で訪れた日和山の一角にある。寺のパンフでは、そのあらましが以下のように説明されている。

海向寺は今から1150年前に真言宗の開祖弘法大師空海が開かれたと伝えられています。その後、真然上人が御本尊胎蔵界大日如来(湯殿山大権現)を勧請し、忠海上人、鉄門海上人がそれぞれ再建したのち現在に至っています

また、権現造りと呼ばれる本堂のかまえは神佛習合の昔をしのび、連日祈願の太鼓の音とおまいりの人々が絶えません

この寺では本堂のわきに建つ即身佛堂に、2体の即身仏が祀られている。忠海上人(中興1代目住職、宝暦5年2月21日(1755年)入寂)と円明海上人(9代目住職、文政5年5月8日(1822年)入寂)の即身仏だ。

この2体の即身仏は、大日坊の真如海上人に比べると黒っぽく見えるが、それはミイラ化のプロセスが違うためだという。松本昭の『日本のミイラ仏』(臨川選書、1993年:amazon.co.jp→日本のミイラ仏 )では、以下のように説明されている。

両上人のミイラ化は、これまでの方法と違って燻製法であった。それも注連寺の裏手にあった六角堂の中に遺体を置き、周囲にロウソクと蓬の芯だけにしたのを線香代わりとして、いぶして乾燥させたというから燻製ミイラである。そういえば、忠海上人は全身がいやに黒ずんでいたし、円明海上人は更にその上に柿渋を塗っていた

大日坊で真如海上人を拝んだときには、たくさんの参詣者がいて、最初に住職の説明を聞いてから、列を作って拝むという流れだったので、落ち着いて即身仏と向き合うことができなかった。実はそのあとで、海向寺8代目住職だった鉄門海上人の即身仏が祀られている注連寺にも参詣したのだが、かなり大きな地震があったために拝む余裕がなかった(結局、その日は新幹線が動かなかったために山形駅に泊まることになってしまった)。注連寺のほうは参詣者もまばらだったので、何事もなければ静かに拝むことができたかもしれない。

今回の海向寺では、その時点で拝観を申し込んだのがわれわれだけだったので、最初に職員から簡単な説明を受けたあとは、忠海上人と円明海上人の即身仏と静かに向き合うことができた。最後に、先述した内藤正敏の『日本のミイラ信仰』のなかで印象に残ったことを引用しておきたい。

これまで木食行や断食は、生前から脂肪分を落としてミイラになりやすくするための修行だとか宗教的な苦行としてしか考えられていない。(中略)しかし、私は、湯殿山の木食行にはもう一つ別の意味があったと思うのだ。それは木食行で食べる木の実や野草が飢饉食だったという事実だ

飢饉の時に人々を救うために飢饉食をとり、木食行や断食をして一心に祈願する一世行人たちの姿は、どんなに高尚な思想や荘厳な宗教儀式よりも、どれほど飢えた人々の心のささえになったか、はかりしれなかったと思う。すでに、中国神仙術の断穀や、高野山などで重視された木食行も、湯殿山に入ると、表面的には同じに見えても、その意味は大きく変質していたのである

土門拳の写真の世界と即身仏の世界、たてつづけに時を超えて語りかけてくるものと向き合うことになった。(鳥海山に登る 了)

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