朝比奈切通しを歩き、光触寺に参る――2005秋の鎌倉散歩 その一 | 楽土慢遊

朝比奈切通しを歩き、光触寺に参る――2005秋の鎌倉散歩 その一

所在地:
神奈川県鎌倉市十二所―横浜市金沢区朝比奈町
交 通:
京浜急行金沢八景駅、京急バス・鎌倉駅行き、神奈川中央交通・大船駅行きほかで約10分、朝比奈バス停下車

2005年10月23日(日):晴れ:京浜急行・金沢八景駅―(バス)→朝比奈バス停→朝比奈切通し入口→熊野神社分岐→熊野神社→熊野神社分岐→三郎の滝→光触寺

■ 鎌倉は三方を山に囲まれ、残りの一方が海に面している。それはまさしく天然の要害だが、幕府を開き、政治・経済の中心としていくためには要路が必要となる。そこで鎌倉と外部の交通の便をはかるために切り拓かれたのが、朝比奈切通し、名越切通し、大仏切通し、化粧坂、亀ヶ谷坂、極楽寺切通し、巨福呂坂という切通しや坂であり、鎌倉七口と呼ばれている。

今回の鎌倉散歩では切通しを目的地に選び、七口のうちのふたつ、朝比奈切通しと名越切通しを中心に歩くことにする。まずは朝比奈切通しから。道標にあるように朝夷奈切通と表記されることもあるが、ここでは現在の地名にあわせ朝比奈切通しとする。

朝比奈切通しは、当時の鎌倉と六浦津、現在の鎌倉市十二所と横浜市金沢区朝比奈町を結ぶ古道。散策では鎌倉の十二所から金沢に向かうのが一般的かと思うが、筆者は横浜市在住なので、金沢側から歩くことが多い。

京浜急行の金沢八景駅で下車し、鎌倉駅行きや大船駅行き他のバスに乗り、朝比奈バス停で下車。道路を少し進むと朝夷奈切通200mの道標があり、それに従って左折し道なりに行くと金沢側の起点に着く。

道の脇の案内板には以下のような説明がある。

「鎌倉幕府は、仁治元年(1240)六浦津との重要交通路として、路改修を議定、翌年4月から工事にかかりました。執権北条泰時自らが監督し、自分の乗馬に土石を運ばせて工事を急がせたといいます。
 当時の六浦は、塩の産地であり、安房・上総・下総等の関東地方をはじめ、海外(唐)からの物資集散の港でした。舟で運ばれた各地の物資は、この切通を越えて鎌倉に入り、六浦港の政治的・経済的価値は倍増しました。
 また、鎌倉防衛上必要な防禦施設として、路の左右に平場や切岸の跡とみられるものが残されています。
 鎌倉市境の南側には、熊野神社がありますが、これは鎌倉の艮(鬼門)の守りとして祀られたと伝えられています。
 鎌倉七口の中、最も高く嶮岨な路です」

切通しの道に入るとすぐ右手に庚申塔や供養塔などの石塔が並んでいる。少し進むと頭上を通る横浜横須賀道路の下をくぐる。そして木立に囲まれた緩やかな上り坂を進んでいくと、岩山を掘削した切通しの道が現われる。

横浜金沢観光協会公式サイトによれば、鎌倉霊園を経て鎌倉行きのバスが通っている県道が開通したのは昭和31年のことで、この朝比奈切通しがそれ以前の旧道だったという。

しかも、神谷道倫の『鎌倉史跡散策(上・下)』(かまくら春秋社)に書かれているように、物見遊山や社寺詣でが盛んになった江戸時代の中頃には、金沢八景の景勝を見て、鎌倉の社寺詣でや江ノ島の弁財天詣でをするような観光道路にもなっていた。

だからこの道は後の時代に整備が重ねられ、変貌を遂げてきているが、それでも独特の雰囲気を失っていない。

筆者が最初にこの道を歩いて不思議に思ったのは、やぐら(鎌倉に特有の横穴式の墳墓)が不自然に高い位置にあることだ。切通しから断崖を見上げないと、そこにやぐらがあることすら気づかないほどだ。

文献では、やぐらが作られた時代には道の高さがその下まであったと説明されている。その後に道だけがさらに掘り下げられ、現在の高さになったということだ。鎌倉時代にはこの道はもっと険しく急な坂になっていたわけだ。防備も兼ねた要路や観光道路など、目的が変われば、道のかたちも変わってくるのだろう。

鎌倉に向かう切通しと熊野神社に向かう道の分岐までやって来る。道の脇にたつ熊野神社の案内板には以下のような説明が書かれている。

祭神は「速玉男之命・伊邪那岐命・伊邪那美命」。由緒は「古傳に曰、源頼朝鎌倉に覇府を開くや朝比奈切通の開鑿に際し守護神として熊野三社大明神を勧請せられしと、元禄年中 地頭加藤太郎左衛門尉之を再建す、里人の崇敬亦篤く安永及嘉永年間にも修築を加え明治六年村社に列格、古来安産守護に霊験著しと云う」

左の道を行き、神社に参詣してから、切通しに戻ることにする。道を進むと左手の山腹、樹林の間に拝殿が見えてくる。参道の石段を上り、一の鳥居をくぐり、さらに上ると拝殿に至る。拝殿の右手に摂末社があり、その脇の石段を上っていくと本殿に至る。本殿と拝殿は比較的新しい建物(それぞれ昭和54年と平成3年の再建)だが、境内のスダジイ、銀杏、杉の巨木が歴史を感じさせる。

頼朝が勧請した熊野三社大明神、そしてあとで参る一遍上人開基の光触寺は、どちらも熊野と深く関わっていることになる。

先ほどの熊野神社との分岐まで戻り、切通しを進む。間もなく横浜市と鎌倉市の境界、峠のピークになる。

峠のピークまでやって来る。ここも後に掘り下げられた場所で、かつてはもっと険しく急な道だったという。

仏像の浮き彫りがある遺構。かつてこの付近に茶屋があったという。社寺詣でを目的とした人々が往来する観光道路としての道を想像してみる。

ここから先は湧水が脇の水路だけではなく、岩盤の道にも流れ、変化に富む風景を生み出していく。

湿った岩盤の道に佇む石仏も風情がある。

染み出す水によって異なる色の土が岩に模様を描いている。

苔むした岩と岩をなめるように流れる湧水。

流れる水と黒光りする岩のコントラストが美しい。

頭上を覆う木々から漏れる光によって風景が様々に変化する。

切通しの鎌倉側の起点になる三郎の滝に到着。和田義盛の三男、朝比奈三郎義秀がこの切通しを一夜で切り開いたという伝説にちなんで、滝にその名がつけられている。滝の脇には朝夷奈切通を説明する史跡碑が置かれている。

すぐ近くにある光触寺に向かう途中に、馬頭観世音など4基の石塔があるが、いずれも見上げる高さに位置している。先述したやぐらと同様に考えるなら、かつては石塔の下あたりまであった道がのちに掘り下げられたことになる。

時宗 岩蔵山光触寺の山門をくぐる。弘安二年(1279)創建。開基は一遍上人、開山は作阿。もとは真言宗の寺だったが、作阿が一遍上人に帰依し、時宗に改めたという。

筆者は6月(2005年)に熊野古道を歩き、熊野三山に参詣してから、熊野により強い関心を持つようになった。

前掲の『鎌倉史跡散策(上・下)』によれば、一遍上人は文永十一(一二七八)年に熊野三山を参詣し、熊野本宮参籠の折に熊野権現より神託を授かり、他力念仏の深意を悟ったことから、時宗と熊野社には切っても切れない深い関係があるという。

そして境内に祀られた塩嘗地蔵にも注目すべきだろう。同書には以下のように説明されている。「もとは金沢街道の傍らにあり、六浦(横浜市金沢区)の塩売りの商人が、鎌倉に商いに行く時に朝のうちにここを通り、この地蔵に初穂としてひとつまみの塩を供えて行くのが習いであった。帰りに塩はなくなっているので、この地蔵が塩を嘗めてしまうのだろうといわれて、このように名づけられたという伝説を持っている」

2005秋の鎌倉散歩 その二につづく)

《参照/引用文献》
● 『鎌倉史跡散策(上・下)』神谷道倫(かまくら春秋社)

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