2012年9月15日(土):晴れ:横浜→八王子→塩山駅→(バス)→恵林寺→(バス)→乾徳山登山口(徳和)→乾徳公園→吉祥寺→三徳荘
■三連休に一泊二日で乾徳山に登る計画をたてた。公共交通機関利用ではあっても、横浜からなら日帰りも不可能ではないが、ちょっともの足りない。もちろん、いつも心がけているように朝一番で登りたいということもあったが、登る以外に立ち寄りたい場所があった。
それは乾徳山を山号とする恵林寺だ。この古刹の開山は禅僧・夢窓国師(夢窓疎石)。枡野俊明の『夢窓疎石 日本庭園を極めた禅僧』(日本放送出版協会、2005年:amazon.co.jp→夢窓疎石―日本庭園を極めた禅僧
)では、以下のように説明されている。
「恵林寺のある甲斐牧の庄は、国師が幼少時代を過ごした縁の地である。国師が以前自然のなかで修行した山の麓にある徳和の地が、乾(いぬい)の方向にあることから「乾徳山」という山号をつけたといわれている」
ということで一日目は夢窓国師ゆかりの地を散策する。9:00前に家を出て、横浜線で八王子駅に行き、特急あずさに乗り換え塩山駅で下車。駅前のバス停から窪平・西沢渓谷入口行きのバスに乗り、恵林寺バス停で下車。
バス停から本堂までには、総門(黒門)、四脚門(赤門)、三門という三つの門をくぐる。恵林寺で多くの人が想起するのは、戦国武将・武田信玄の菩提寺であること、そして織田軍に攻められたときに、寺と運命をともにした快川和尚が遺した「安禅不必須山水 滅却心頭火自涼(安禅必ずしも山水をもちいず、心頭滅却すれば火もおのずから涼し)」という偈だろう。三門にはその和尚の偈が掛けられている。
三つ目の門である三門をくぐると正面に開山堂がある。堂内には、夢窓国師、快川和尚、末宗和尚の三像が安置されている。寺のパンフレットによれば、「末宗和尚は快川国師の弟子で、三門焼き討ちの際、快川和尚の命を奉じて火を逃れた僧で、那須の雲巌寺に潜み、後に徳川家康に命ぜられ恵林寺の再興にあたった僧である」という。
開山堂の前から、拝観受付がある大庫裡に移動する。大庫裡の手前には方丈の玄関があり、玄関の奥には禅堂がある。この記事のトップの写真はその禅堂から白砂の庭を見た図になる。
大庫裡が拝観受付になっている。大庫裡には、風林火山の屏風や駕籠などがある。ここから拝観順路をたどるとまず玄関の奥の禅堂になる。
禅堂を抜けると方丈の広縁に出る。広縁からは白砂を敷きつめた南庭が眺められる。方丈は驚くほど広い。
広い方丈と武田不動堂を結んでいるのが、歩くたびにキュッキュッと音がするうぐいす廊下。廊下を抜けると、明王殿に武田不動尊が安置されている。パンフでは以下のように説明されている。
「比叡山より大僧正の位を受けた際、記念像として京都より仏師の斉藤康清を招き、対面で摸刻させたという等身大の不動明王である」
信玄公墓所は明王殿の裏にある。「現在でも、恵林寺では4月12日に信玄忌として毎年供養が行われている。信玄の墓の後ろには武田家臣の供養塔が約七十基並んでいる」
そして、筆者が最も見たいと思っていたのが、方丈の裏側に広がる夢窓国師築庭の池泉廻遊式庭園だ。筆者は近いこともあって鎌倉によく足を運ぶ。その鎌倉には、夢窓国師が開創した禅院・瑞泉寺があり、その本堂の裏側に国師築庭の池泉式庭園がある。その庭園に親しむほどに他の庭園も見たいと思っていた。それだけに乾徳山に登るとなれば、国師の庭園を外すわけにはいかない。
また、国師の築庭の軌跡をたどるうえで、順序からみても悪くない。枡野俊明は先述した『夢窓疎石 日本庭園を極めた禅僧』のなかで、国師の作庭を「創成期」「発展期」「成熟期」という三つの時代に大きく分けている。
そこで創成期にあげられているのが、美濃の永保寺と鎌倉の瑞泉寺の庭園。「この時代の国師の庭園の特徴の一つに、自然の優れた条件の土地を選び、崖を利用して滝を築き、その手前に池をつくる点がある」
これに対して、発展期の変化を象徴するのが、この恵林寺の庭園だ。「この恵林寺の敷地内には、永保寺や瑞泉寺のように自然の滝や池、すばらしい眺望もない。それで、石や木々により、通常の自然とはまったく異なる空間をつくり出し、庭を通して別の世界、すなわち「悟りの世界」を庭園という立体造形であらわしている」
「いずれにしても、この恵林寺の庭園で、国師は作庭における空間構成、石の扱い方、据え付け方法、植栽の配置などに挑戦し、その後の作庭の基礎を完全に築いたことは間違いない。そのように考えると、この恵林寺の庭園なくしては、のちの西芳寺や天龍寺の庭園は成しえなかったといっても過言ではない」
ただし、現在の庭園が国師の時代とまったく同じというわけではない。本書(amazon.co.jp→夢窓疎石―日本庭園を極めた禅僧 )では、後に手を加えられた可能性のある部分についても言及されているので、興味のある方にはぜひお勧めしたい。ということで、今度は、国師ゆかりの吉祥寺がある徳和に移動する。(以下、地図の下につづく)
※もっと恵林寺の画像がご覧になりたい方は、以下リンクが恵林寺のギャラリーになっています。武田不動尊や風林火山の屏風の画像など、いろいろあります。
■恵林寺バス停から再び西沢渓谷入口行きのバスに乗り、乾徳山登山口バス停で下車する。ここには徳和の集落があり、われわれはここで一泊して朝一で乾徳山に登る。まだ14:00をまわったところなので、宿に行く前に徳和の周辺を散策することに。
まずはバス停の近く、徳和川のほとりにある乾徳公園に向かう。公園の手前には、石のお地蔵さんや古い石碑が並んでいる。このあと集落を散策するうちに何度も道祖神や小さな祠、お地蔵さんに出会うことになる。
乾徳公園にはかつての農村の風景が再現されている。公園から徳和川におりることもできる。紫陽花が多く、開花期には風景がずいぶん華やかなものになりそうだ。公園には東屋やトイレもあり、山から下りてきたあとひと息つくにはよいかもしれない。
乾徳公園を出て、橋を渡り、民宿山登旅館や山吹荘の前を通過し、徳和山吉祥寺に通じる坂を上っていく。左手に虚空蔵菩薩坐像を安置した小さなお堂がある。説明板によれば、本像は室町時代の後期の作という。お堂の周囲には、だいぶ摩滅した道祖神なども目につく。
さらに坂を上ると左手に吉祥寺の石段がある。石段を上り、山門をくぐると、入母屋造りの本堂がたっている。毘沙門天を祀り、屋根には鬼面を配している。この寺を参詣したいと思ったのは、やはり夢窓国師とゆかりがあると思われるからだ。徳和山吉祥寺ホームページでは、「吉祥寺畧記」から以下のような伝承が紹介されている。
「後醍醐天皇の帝、嘉暦年中(1326~1328)の盛夏十九歳の青年僧は天然の絶景乾徳山に憧れ、その山頂近くの大自然の岩窟に座禅し、修行されました。
すると忽然として雛僧岩窟を訪れて青年僧に云う『吾れ大願あれば貴僧に毎暁乾柿を一個を供養したい、貴僧の半片の乾柿と和し日一果半となる、是を以って命の糧とすべし、然ろざれば貴僧の生命大悟に至らずして消滅せん我これを悲しむ』 青年僧はこれを聞いて怪異に思い雛僧に云う。『なんじ年少にして殊勝なり、然れども出家なき故は供養を受くるを得ず。包う吾が弟子たれ』と。
雛僧は快諾して師弟の契りを結び雛僧は『道満』と云う法名と木綿の袈裟を授けられ、雨の日も風の日も乾柿一個を手向けて、怠らず九十日過ぎました。
その甲斐あって修行が成満しました。師弟手を取り合って下山しました。しばし彩雲一抹の富士、銀蛇の笛吹、東に重畳の大菩薩領、 西に起伏する金峰、八ヶ岳南ア連領、道中の展望を眺めていったところ、常に先行して居った『道満』の姿が、はたとして消えてしまいました。青年僧は不審に思い『道満、道満』と呼び乍ら界隈を尋ねたが遂に道満の姿は沓として見当たらなかった。精根つきはて草 原にまどろむに道満夢に現れ、『ここ下りし里に霊仏あり』と告げきえてしまいました。
奇異の念抱きながら尾根を降り(現在も地名として道満山あり)徳和の里に入るにはたせるかな古刹、毘沙門堂がありました。拝するに厨子が自然にあき本尊様が『乾柿を貢いた道満の顔に瓜二つであった』あまつさえ与えた袈裟をかけ柿の種子が厨子の中に散乱してあり、青年僧は始めて感得し『かたじけなし』と七日間本堂に参詣 して報恩感謝の淨行をしました。この青年僧こそ室町時代の高僧夢窓国師であったと伝えられています。
またこの毘沙門堂でのおつと めを終えると疲れた僧はこの里の名取八ヱ門宅で快くお持て成しを 受け疲れを癒し、里を降り乾徳山が見えるところに寺お建てました。 それが現在の恵林寺です。
伝承が最終的に恵林寺まで繋がるところが興味深い。徳和の集落の背後には、道満山(1314m)がそびえ、この道満山から道満尾根を通って乾徳山に登るコースもある。今回登るのはそのコースではないが、いずれ歩いてみたいと思う。
ということで本日の宿・三徳荘に向かう。(乾徳山に登る その二につづく)