瑞泉寺に詣で、夢窓国師の庭を愛でる――2012秋の鎌倉散歩 その二 | 楽土慢遊

瑞泉寺に詣で、夢窓国師の庭を愛でる――2012秋の鎌倉散歩 その二

所在地:
[瑞泉寺] 〒248-0002 鎌倉市二階堂710
交 通:
鎌倉駅(JR/江ノ電)東口より バス大塔宮行 ─15分─終点大塔宮下車/徒歩10分〜15分

2012年11月25日(日):晴れ:永福寺跡→錦屏山瑞泉寺





■(2012秋の鎌倉散歩 その一からのつづき)前回は永福寺の跡地から瑞泉寺に向かうところで終わった。瑞泉寺に行きたいと思ったのは、単に獅子舞の谷から近いからではない。すでにアップ済みの乾徳山に登るをお読みの方にはわかるかもしれない。

そこで書いたように、最近は夢窓国師の庭に関心があり、乾徳山に登る前に恵林寺に立ち寄り、国師の庭を見た。そこで、瑞泉寺の国師の庭は何度も見ているが、恵林寺の庭を見たあとであらためてまた見てみたくなった。(恵林寺の記事をお読みになりたい方は以下がそのリンクになります)

境内から孤立しているようにも見える総門のわきを通り抜け、受付で拝観料を払う。瑞泉寺の拝観時間は、9:00~17:00(10月から3月までは16:30まで)。料金は大人200円、小中学生100円。紅葉ヶ谷の奥にある境内は三方を山に囲まれているので、山が間近に迫ってくる。

山門に至る参道は、苔むした古くからの石段と新しい石段があるが、やはり前者の方が気持ちが引き締まる。石段の手前には、「夢窓国師古道場」と刻まれた石碑がたっている。

ではまず瑞泉寺のおさらいを。山門の前に設置されている神奈川県教育委員会の説明板には以下のように記されている。

創建は、嘉暦二年(一三二七年)、錦屏山と号し、開山は夢窓疎石、臨済宗円覚寺派に属する。
徧界一覧亭も創建と同時期に建てられ、亭の前庭を兼ねた書院庭園もそのころに造られたものと思われる。
南北朝時代に入ると、鎌倉公方足利基氏が疎石に帰依したため公方の塔所となり、関東十刹に名をつらね、疎石派の拠点として関東禅林に重きをなした。
現在、寺内に古建築は残っていないが、発掘復元された池庭と、十八曲して一覧亭にいたる登坂路の遺構はよく保存されている。また、寺背の山に多くのやぐら群をふくむ境内地がほぼ全域にわたって保持されていることは貴重である

一方、石段の下に設置されている鎌倉市の説明板には以下のように記されている。

鎌倉公方(鎌倉府の長)の菩提寺として、鎌倉五山に次ぐ関東十刹に列せられた格式ある寺院です。
山号の錦屏山は、寺を囲む山々の紅葉が錦の屏風のように美しいことから付けられたといわれています。また境内は、四季を通して様々な花を楽しむことが出来ます。
開山の夢窓国師は、後醍醐天皇や足利尊氏も深く帰依し、鎌倉~南北朝期に重きをなした僧です。作庭にも才を発揮し、昭和四五年に発掘、復元された仏殿背後の庭園は国師の作として、国の名勝に指定されています。

確かに紅葉のピークの時期にこの寺に来ると、本道の裏山や境内を囲む山が屏風のように美しく見える。今日はどうかというと、色づいている木々もあるが、屏風には程遠い。その一で書いた獅子舞の谷と同じで、まだ時期が早いというよりは、台風のダメージで紅葉に勢いがないのではないかと思う。

ということで庭の話に移る。恵林寺の記事と少しダブるが、庭を見るうえで参考になると思うのでご容赦を。枡野俊明は『夢窓疎石 日本庭園を極めた禅僧』(日本放送出版協会、2005年:amazon.co.jp→夢窓疎石―日本庭園を極めた禅僧
)のなかで、国師の作庭を「創成期」「発展期」「成熟期」という三つの時代に大きく分けている。

そこで創成期にあげられているのが、美濃の永保寺とこの瑞泉寺の庭園だ。「この時代の国師の庭園の特徴の一つに、自然の優れた条件の土地を選び、崖を利用して滝を築き、その手前に池をつくる点がある

これに対して、発展期の変化を象徴するのが恵林寺の庭園だ。「この恵林寺の敷地内には、永保寺や瑞泉寺のように自然の滝や池、すばらしい眺望もない。それで、石や木々により、通常の自然とはまったく異なる空間をつくり出し、庭を通して別の世界、すなわち「悟りの世界」を庭園という立体造形であらわしている

つまり、夢窓国師の作庭は、場所や環境によって変化し、発展を遂げた。そう考えると、夢窓国師と二階堂貞藤の関係が興味深いものに思えてくる。二階堂貞藤は鎌倉時代後期の御家人で、法名は道蘊。国師との関係の出発点は思い出せないが、少なくとも嘉元三年(一三〇五)に甲斐に帰郷した国師は、牧の庄(国師の両親が住み、母親が埋葬された場所でもある)の領主、二階堂道蘊に請われて、常牧山浄居寺を開いている。

その後、国師は先ほどの説明板にあったように、嘉暦二年(一三二七年)にこの瑞泉寺を開くわけだが、神谷道倫の『深く歩く 鎌倉史跡散策(上)』(かまくら春秋社:amazon.co.jp→深く歩く鎌倉史跡散策〈上〉
)には、瑞泉寺創建について以下のような記述がある。

嘉暦二(一三二七)年、二階堂貞藤(法名道蘊)を開基とし、夢窓疎石を開山として開創され、はじめは瑞泉院と称した。二階堂氏は本姓藤原氏で、邸宅が二階堂(永福寺)近くにあったので家名とした。鎌倉・室町時代を通じて文官を輩出した豪族で、甲斐の国の恵林寺(現甲州市)も夢窓疎石を開山とし道蘊が開基となっている

さらにここで思い出すのが、恵林寺でもらったパンフに、恵林寺の創建のことが以下のように説明されていたことだ。「夢窓国師は伊勢の生まれで、甲斐へ移り住み九歳で出家。当時の領主、二階堂道蘊に請われ邸宅を禅院に改めたのが恵林寺の始まり、国師五十五歳の頃であった

もし二階堂氏の邸宅が二階堂の近くにあったことと、国師がそのそばに禅院を開くのに理想的なリ立地を見出したことが無関係でないとしたら、道蘊は庭の場所にも関わりを持っていたことになる。恵林寺の場合はもっと明確だ。邸宅を禅院に改めるという意向があったからこそ、場所や環境ががらりと変わり、国師のなかに新たな作庭の方向性が切り拓かれたともいえるだろう。そんな人と場所の巡り合せも興味深く思えてくる

恵林寺と瑞泉寺の庭は根本的な発想が違う。自然の条件に乏しい場所に石組みや木々で新たな空間を作り出している恵林寺の庭が「足し算」であるとするなら、瑞泉寺のそれは「引き算」だ。自然のなかで岩盤に彫刻をほどこし、削りだされた空間だ。岩盤に天女洞を掘り、水月観道場とした。天女洞の前に池を掘り、貯清池と名づけた。そして池の掘り残した部分が島になっている。

しかし残念ながら私たちには庭の全体像を確認することはできない。非公開になっている部分があるからだ。池の西側には二つの橋がかかり、その先に山に登る道がつづいている。国師は、二つの橋もふくめて十八曲がりの道を登りきった錦屏山の山頂に小亭を構え、徧界一覧亭と名づけた。そこからは富士山や相模湾が望めるという。ちなみに先述の神谷道倫の『深く歩く 鎌倉史跡散策(上)』によれば、現在の建物は昭和十年建立の新しいものだという。

さらに天女洞の東側、錦屏山の山腹に座禅窟、葆光窟が穿たれているという。先述した枡野俊明の『夢窓疎石 日本庭園を極めた禅僧』では、この座禅窟が以下のように説明されている。

錦屏山の中腹の岩盤を刻んで、滝、池などをつくった岩庭である鎌倉石が露になった崖には、前述の座禅窟(葆光窟)があり、国師はそこで座禅修行をしたといわれている。この座禅窟はかなりの広さと高さを兼ね備えた空間であり、一人が座禅をするのには十分すぎる。座禅窟の左側の滝は、自然の崖の高低差を利用して設えられたもので、崖上には水源の貯水池が設けられている。山から絞られてくるわずかな水を貯水しておき、客人が来ると、堰を外して水を落とし、滝として客をもてなしたという

そうなると恵林寺と瑞泉寺では、庭の位置づけそのものが違ってくる。恵林寺の庭は方丈からの視線に基づいて空間が構築されているが、瑞泉寺の庭の場合にはそのような外部からの視線が中心になっているわけではなさそうだ。そんな自然と一体となる体験がしだいに内面化され、禅の庭に凝縮されていく。それが庭の発展といえるのかもしれない。

瑞泉寺の山門を出て、今度は新しい石段を下る。ここから若宮大路に戻り、昼食をとり、明月院に向かう。

2012秋の鎌倉散歩 その三につづく)



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