2006年9月10日(日):晴れ:横浜駅―(相鉄線)→海老名駅―(小田急線)→伊勢原駅―(バス)→大山ケーブルバス停→こま参道→八意思兼神社(追分社)→女坂→前不動堂・倶利伽羅竜王堂→雨降山大山寺
※本テキストは大山の歴史的な背景などにも言及しています。コースや展望だけをチェックしたい方は以下リンクの一番目のテキストをお読みください。
■ 今回の大山詣では、大山ケーブルバス停からスタートし、大山寺、二重滝、阿夫利神社を経て山頂に至り、頂上から見晴台を経て日向薬師に下る。
横浜駅から相鉄線と小田急線を乗り継いで伊勢原駅に到着。大山ケーブル行きのバスに乗り、終点で下車。バス停から鈴川沿いの道を進み、こま参道に入って石段を上っていく。参道には大山こまをデザインしたタイルが埋め込まれ、上っていくに従ってこまの数が増えていく。
自然崇拝、山岳信仰や修験道に関心を持つ筆者は、地元の山である大山にいろいろな意味で興味を引かれる。こま参道を歩くと、講中の奉納額や登拝記念の石碑などに目が行く。
講とは、同一の信仰を持つ人々による結社を、講中とは、講を作って神仏に詣でたり、祭りに参加したりする信仰者の集まりを意味する。その講中には、信者のために祈祷を行い、参詣のために宿泊・案内などの世話をする御師、先導師、講元と呼ばれる人々が不可欠になる。
その御師の元をたどれば修験道に至り、その変遷からは複雑な歴史が浮かび上がってくる。
他の代表的な霊山と同じく、大山でも日本古来の自然崇拝に根ざした神祇信仰と外来の仏教が習合し、山岳を修行の道場とする修験道の発展をみた。大山には修験道の開祖とされる役小角の伝承も残るが、史実としての仏教伝来による開山は、天平勝宝7年(755)、東大寺の別当、良弁僧正の入山によるものとされる。
宇都宮泰長、鈴木隆良『大山不動と日向薬師 (1981年)』(鵬和出版、1981年)には、開山から修験道の発展、修験者から御師への変遷が以下のように簡潔に綴られている。
「良弁は大山の登頂に成功すると、霊示を受けて山頂に石尊大権現を祀り、中腹に不動堂を建て大山寺(だいさんじ)と名づけた。そして時の帝、聖武天皇に勅奏して大山寺を勅願寺としたのである。朝廷の庇護によって武門の間にも石尊信仰が浸透し、頼朝、実朝、時政と、鎌倉の権力者達の帰依を受け、修験道場はさらに大きく発展した。
戦国時代になると、修験山伏は武装集団となり、天正十八年(一五九〇)家康の小田原攻略では、修験山伏は北条氏勝に味方して加持祈禱を行ない、ホラ貝を吹いて軍陣の先頭に立った。修験山伏のためにさんざん苦杯をなめた家康は、慶長十年(一六〇五)五月、大山に登山すると直ちに神職、修験山伏の下山を命じ、平塚八幡の別当実雄を石尊社の別当職に据え、大山の大改革を行った。
大山を追放された神職は坂本と蓑毛に居を構え、大山信仰者の講中づくりに専念し、大山詣での先達の役目を引受け生計の道をたてた。これが先導師とか、御師と呼ばれる宿坊の始まりである。
大山講による大山信仰者の組織化は、江戸八百八町はいうにおよばず、遠く房総、遠州、上州にまでおよび、大山詣でが最もさかんであった宝暦年間(一七五一―一七六三)には、年間二十万人に達する参詣者があったという」
しかし、そんな江戸時代の講中と筆者が参道で目にする奉納額や記念碑の講中の間には断層がある。前者の御師や先導師が大山寺に属していたのに対して、後者は阿夫利神社に属している。明治時代になると神仏分離によって廃仏毀釈が猛威をふるい、大山寺は廃寺となり(のちに現在の場所に再建)、僧侶が山から排除され、寺院の跡地に阿夫利神社が建てられることになったからだ。
内海弁次『相州大山』(神奈川新聞社、1996年)では、その断層といえるものが以下のように説明されている。
「このように大山の歴史をたどる時、原始信仰による神霊のお山から、仏教支配のお山となり、ついでその実体は修験支配のお山となり、江戸期以降再び清僧のお山となって、合わせて仏教支配千百余年間。その後再び神道主体のお山に戻る。明治初期の調査によれば、江戸時代の盛時が基礎になった開導記の集計では、江戸市中およそ二十万戸の大山講中を加算して、十二都県百四十九郡、九十万九千七百四十三戸、各大山街道の定宿二百四十三軒であった。だが、明治維新の大変革の洗礼は極めて過酷なもので、先導師、職人、商人を問わず郷土を去り行く者相次いだ。そんな中で、与えられた運命に従い大山に踏み止って、神道による大山再建に精進した若手先導師や宮大工、木挽、木地師、とび職、商人、荷上げ職等、徒手空拳の住民とこれまた同じ境涯で大山寺再建を果たした寺僧等の努力で、阿夫利神社の信徒の数は、明治中期において五十万戸講社二十万戸の確保をなしとげたのである」
こま参道の奥まったところに、登拝の前に身を清める水垢離場でもある元滝がある。石段を上り、大山ケーブルカーの追分駅のわきを通り抜けると、八意思兼神社(追分社)の前に出る。神社の前にたつ石碑が示すように、ここは分岐になっている。右の阿夫利神社に至る道は男坂、左の不動大明王(大山寺)に至る道は女坂と呼ばれている。明治時代以前には、阿夫利神社がある場所に大山寺が建っていたので、その当時は右の道が主要な参道になっていたのかもしれない。
筆者はまず大山寺に参詣するので女坂を行く。ちなみに男坂は今は急なだけで特に見るものがないが、女坂は信仰の歴史を感じさせる道になっている。道を進んでいくと左手に無縁佛供養碑や石仏が並んでいる。紅葉橋を渡った先では七不思議の二とされる子育地蔵、急な石段の途中では七不思議の三になる磨崖仏の爪剪地蔵を拝める。
急な石段を上り切ると古いお堂が並んでいる。右の大きいお堂が前不動堂で、扁額には前不動明王と刻まれている。廃仏毀釈の混乱期にこの現在の場所に移される前は先ほどの八意思兼神社のところに建っていたという。
左の小さいお堂は倶利伽羅竜王堂(↓)。廃仏毀釈の後に現在の場所に移されたが、それ以前は、これから向かう二重滝のところに建っていた。大山に残る最古の建造物という。
倶利伽羅竜王堂を過ぎ、雨降山大山寺の石段にたどり着く。石段の頭上はモミジに覆われ、紅葉の時期は特に美しい。いずれその画像もアップする予定だ。
石段の両脇には本尊不動明王の眷属である童子像が並んでいる。先月登った木曽御嶽山には不動明王の眷属の名前が刻まれた三十六童子の石碑をたどるお鉢巡りがあったが(展望に恵まれたお鉢巡りと地獄谷――木曽御嶽山に登る その四参照)、こちらの童子の配置にもそんな意味が込められているのかもしれない。
石段を上ると風格のある大山寺の本堂が目の前に迫る。雨降山大山寺の公式サイトから、開基の一部を引用しておく。
「大山寺は、奈良の東大寺を開いた良弁僧正が天平勝宝七年(七五五)に開山したのに始まります。
行基菩薩の高弟である光増和尚は開山良弁僧正を継いで、大山寺二世となり、大山全域を開き、山の中腹に諸堂を建立。
その後、徳一菩薩の招きにより、大山寺第三世として弘法大師が当山に入り、数々の霊所が開かれました。大師が錫杖を立てると泉が湧いて井戸となり、また自らの爪で一夜にして岩塊に地蔵尊を謹刻して鎮魂となすなど、現在は大山七不思議と称される霊地信仰を確立しました。
また日本古来の信仰を大切にし、尊重すべきとのお大師様のおことばにより、山上の石尊権現を整備し、伽藍内に社殿を設けるなど神仏共存を心掛け手厚く神社を保護してきました」
本堂に向かって右手に建つ弘法大師堂の内部には九十三体の大師小像が置かれているという。
境内で際立つのが、青空に向かって聳え立つ重量感のある宝篋印塔。公式サイトには以下の記述がある。「地上高約11m、青銅造りの宝篋印塔は、日本国中稀に見る精巧巨大な塔である。宝篋印塔は一功如来心秘密全身舎利 宝篋印陀羅尼経に依って建立するものなり」
境内の左奥には倶利伽羅の滝があり、倶利伽羅龍や水神が祀られている。そのわきには八大童子が並んでいる。
先述の内海弁次『相州大山』には、大山寺再建が以下のように記されている。
「明治九年(一八七六)、大山寺不動尊大堂建立工事着工。神仏分離以来八ヶ院寺僧等が苦心廻国の結果、関東各地庶民よりの金穀及び相模国山麓各地よりの欅材寄進の見込み立ち、再建工事に着工する。以来最も苦心労役に従い木材運び上げに並々ならぬ努力をしたのは、山王原〆引子易坂本の人達であった。
大山宮大工棟梁第八十九代手中明王太郎、副棟梁半原宮大工矢内右兵衛、八木勘左衛門、彫工東野富田、後藤敬信、相愛中津住和田光親が精根傾けた。
伝統を誇る多くの大山宮大工、これに呼応して用材を樵った木挽職ともに明治の大山を支えた人々である」
本堂やそれを取り巻くこの霊場にはそんな人々の切なる思いや祈りが込められている。大山寺に参詣したあとは、二重滝と阿夫利神社に向かう。
(2006秋の大山詣で その二につづく)
《参照/引用文献》
● 『大山不動と日向薬師 (1981年)』宇都宮泰長、鈴木隆良(鵬和出版、1981年)
● 『相州大山』内海弁次(神奈川新聞社、1996年)